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湊 庄市(みなと しょういち、1922年 - 2004年1月3日)は、日本の柔道家(講道館9段)。政治家。 柔道界においては全日本柔道連盟顧問や徳島県警師範等、また政界においては徳島県議会議員として県議会議長等を務めた。 == 経歴 == 旧制・阿波中学校にて師・竹内より柔道を学んだ後1939年に講道館へ入門し、中学卒業後は大日本武徳会武道専門学校へと進学。1949年に徳島県警の警察官を拝命し、職務の傍ら柔道修行に励む〔。 柔道選手としては全日本東西対抗大会に3度、国民体育大会に4度の出場。また当時の柔道家にとって最高の晴れ舞台である全日本選手権には1948年、49年、51年、53年、55年と計5回出場して、53年大会では高浜正之6段(近畿代表)と朝飛速夫6段(関東代表)を破って3回戦に進出したほか、55年大会では7歳年下の弟分である横田和孝(同じく徳島県警、のち徳島県柔道連盟会長)と同時出場を果たしている〔。 1951年の全国警察選手権では、決勝戦で当時日の出の勢いであった夏井昇吉(秋田県警)に一本勝ちし、優勝を果たしている。この試合は終始、夏井優勢の試合内容であったものの、武専の先輩である吉松義彦より“夏井は左技に弱い“と耳打ちされていた湊が普段見せない左変則組手による体落を延長戦で仕掛け、虚をつかれた夏井の体が見事に宙を舞うという結末であった〔。この試合を観戦していた警視庁師範(当時)の工藤一三をもって“歴史に残る戦前戦後の名勝負”と言わしめた〔。また1958年の全国警察大会では徳島県警の団体準優勝にも貢献している。 1962年に現役を引退してからは県警本部の柔道師範、そして1968年には県警本部の初代術科師範に就任して後進の指導に汗を流した〔。 1983年に徳島県議会議員選挙に初当選してからは4期議員を務めて永く県政に携わり、1995年には第72代県議会議長に就任した。またこの間、自身が設立に奔走した県柔道協会の会長を24年間務め、その長年の功績から1992年には徳島県初となる講道館9段位を授与されたほか、1989年に県体育協会副会長、2000年に県教育委員、翌01年には同委員長職務代理者を歴任して、湊の青少年育成の場は柔道という枠に収まらなかった〔。 2004年に心不全のため死去〔。 前述の横田曰く、普段の湊は温厚篤実な人格ながらも一旦道衣に袖を通すと一転厳しく、自身の経験から理屈よりも“万事体で覚えること”信念とし、その廉直・謹厳な性格は各方面からの信望も厚かったという〔。座右の銘は「為せば成る」「温故知新」であった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「湊庄市」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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