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湊谷 弘(みなとや ひろし、1943年10月17日 - )は日本の柔道家(8段)。富山県出身。 1967・69年に開催された世界選手権の軽中量級覇者である。 == 経歴 == === 生い立ち === 富山県福野町(現・南砺市)で接骨院を営む家に、7人兄妹の末っ子として生まれる。父が道場を経営していた関係で5際頃から柔道を始め、当時は、幼心にもインターハイか国体への出場を目標に、稽古に励んだ。なお、兄妹はいずれもスポーツマン・スポーツウーマンで、後に卓球(ダブルス)で日本一になった者もいる〔。 中学校を卒業すると、進学校であり、柔道でも小杉高校らと共に当時富山県内の4強に数えられた福野高校(現・南砺福野高校)へ進学。当時は武道=体重無差別の時代であり、現在なら軽量級に区分される当時体重60kgの湊谷は、常に自分より大きい相手と戦う事が当たり前だった。高校3年次のインターハイ県予選では準決勝まで進むも、体重90kgの相手と延長の末に引き分け、あみだくじで決勝進出を逃している〔。また国体予選では5人の出場枠に対しベスト8止まりで、代表の座は射止められなかった。結論を言えば、高校時代の湊谷は全国大会には一度も出場していない事になる。 全国大会出場が叶えられず「もっと強くなりたい」という願望が一層大きくなった湊谷の思いとは裏腹に、高校時代に結果を残していない湊谷に対して大学柔道部からの勧誘は皆無だった。それに加え、家庭の経済的な事情も考慮し、湊谷は富山県警を受験してこれに合格する。しかし、近所に住む武専出身の酒井吉男(富山県柔道連盟副会長)が、同じく武専出身で、当時の大学柔道界で最強を誇った天理大学の指導員を務める松本安市・吉松義彦・橋元親らに推薦してくれたため同大学を受験、倍率5倍以上であったが合格者25人のうちの23番目の成績で合格した(柔道の審査では1勝2敗3分けと散々たるものだったが、800m走が断トツの1位だった事による合格だったそうである)〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「湊谷弘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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