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湯 化竜(とう かりゅう)は清末民初の政治家。清末の立憲派の有力指導者で、民初には安徽派の有力政客となった。字は済武。弟は、後に湖南都督を務めた湯薌銘。 == 事跡 == === 立憲派としての活動 === 1897年(光緒23年)、黄州経古書院を卒業する。光緒28年(1902年)秋に挙人となった。1904年(光緒30年)、甲辰科進士となる。その後、山西大学堂の国文教習に任命された。1906年(光緒32年)、日本へ留学して法政大学で法学を学んだ。また、この時期に法政学交通社という団体の組織に参与している。 1908年(光緒34年)に帰国し、湖北省に戻って地方自治準備の事務に携わり、咨議局籌弁処参事に任命された。1909年(宣統元年)、咨議局副議長に当選し、さらに第1回常会後に議長に選ばれた。以後、湯化竜は立憲派として国会の早期開会を目指す。 1910年(宣統2年)8月に開かれた各省咨議局連合会第1回会議で議長をつとめ、第3次国会開会請願を提出した。11月4日、清朝は1913年(宣統3年)の国会開会に同意したが、湯は満足できなかった。そこで、譚延闓(湖南代表)、蒲殿俊(四川代表)らとともに翌年の開会を求め、第4次請願を行う。しかし、請願を行った代表に対して清朝は弾圧し、湯は失望して湖北に帰った。 1911年(宣統3年)5月に慶親王の「皇族内閣」が成立すると、湯化竜はこれを批判するために、北京の各省咨議局連合会第2回会議に参加した。さらに、各省咨議局連合会は立憲君主制の設立を目指す「憲友会」を組織し、湯はその中心人物となった。 同年10月10日に発生した武昌起義では、湯化竜は当初非協力的であった。しかし、革命成功の機運が高まると、湯は実権掌握に動き、黎元洪の下で政事部長など有力ポストを獲得した。革命派はこれに不満を持ち、結局、湯は湖北省の権力争いで駆逐されてしまう。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「湯化竜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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