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湯口 敏彦(ゆぐち としひこ、1952年6月3日 - 1973年3月22日)は、元読売ジャイアンツの投手(背番号19)。岐阜県郡上郡白鳥町(現在の岐阜県郡上市)出身。 == 来歴・人物 == 岐阜短期大学付属高等学校(現在の岐阜第一高等学校)のエースとして、甲子園大会に春夏連続出場。春はベスト8、夏はベスト4まで勝ち上がる。甲子園では通算7試合に登板して、5勝2敗 61奪三振 防御率1.35を記録した。また、高校時代にノーヒットノーランを3回達成(うち完全試合1回)。当時、同学年で活躍した和歌山・箕島高校の島本講平投手(のち南海)、広島・広陵高校(のち広島)の佐伯和司投手と合わせて「高校生三羽ガラス」と呼ばれた。高校通算28勝4敗。 ストレートの威力は同級生の佐伯に匹敵し、角度のあるカーブも投げていた。荒れ球が持ち味でもあり、制球難を危惧する声もあったが、同年秋のドラフトで読売ジャイアンツに1位で指名され、翌に入団。 1971年は一軍公式戦での登板はなく、イースタン・リーグで17試合に登板して、5勝6敗 防御率3.65を記録。ストレートの威力はすばらしかったが制球難は克服できず、投球回数78回2/3で87奪三振・76四死球であった。翌も公式戦での登板はなく、イースタンリーグでも2勝3敗 防御率6.98と奮わなかった。しかし、10月2日のロッテ戦では3回からの6イニングを無安打2四球に抑え、秋の教育リーグでも好投するなど、シーズン終盤にかけて投球内容が改善していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「湯口敏彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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