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湯地 定基(ゆち / ゆじ〔 さだもと、1843年9月27日(天保14年9月4日)- 1928年(昭和3年)2月10日〔)は、幕末の薩摩藩士。明治から昭和期の開拓使・内務官僚、政治家、農業経営者。根室県令、元老院議官、貴族院勅選議員。通称・治右衛門〔「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書 湯地定基」〕、治左衛門〔『明治維新人名辞典』「湯地治左衛門」1055頁。〕。変名・工藤十郎〔。 ==経歴== 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下で、薩摩藩士・湯地定之、貞夫妻の長男として生まれる〔。慶応2年3月28日(1866年5月12日)、グラバーの援助で長崎からポルトガル船に乗りイギリス経由でアメリカへ渡航した薩摩藩第二次米国留学生5名の1人(残りは仁礼景範、江夏嘉蔵、吉原重俊、種子島敬輔)として参加〔「仁礼景範航米日記」61-64頁。〕。1869年12月28日に帰国のためサンフランシスコに到着、1870年1月1日に日本へ出航予定との手紙が、種子島からの書簡として吉田清成関係文書にある。その後、再度アメリカへ留学する。明治3年9月(1870年)マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)に入学し、ウィリアム・スミス・クラークの指導を受けて農政学を学ぶ〔『海を越えた日本人名事典』新訂増補、719頁。〕〔『根室・千島歴史人名事典』337-338頁。〕。明治4年12月(1872年)に帰国した〔。 明治5年1月7日(1872年2月15日)開拓使八等出仕となり〔「故正四位勲二等湯地定基位階追陞ノ件」〕 ホーレス・ケプロンなどの外国人顧問の通訳を担当した〔〔。同年8月25日(9月27日)大主典に就任〔。1875年2月4日、亀田郡七重村(現七飯町)勤務となり七重開墾場の経営を担当〔〔。1877年1月23日、開拓使権少書記官に就任〔。1878年7月13日、七重勧業試験場長に発令され〔、アメリカでの学びを実践し、多くの伝習生を育成した〔。以後、兼農業仮博覧会監督、兼函館支庁民事課勧業掛、開拓少書記官、兼第二回函館農業仮博覧会監督などを歴任〔。1882年2月8日、開拓使が廃止され、同日設置された根室県の県令に就任〔。農水産業の振興と改良に努め、特にジャガイモの栽培を奨励し「いも判官」と呼ばれた〔。 1886年1月26日、根室県が廃止され北海道庁の設置に伴い同庁理事官に発令され、同年2月16日、土木課長に就任〔。1887年から1889年までドイツ、アメリカに出張し殖民区画制度の調査・研究を行う〔〔。帰国後、1889年3月12日、道庁第二部長に就任し〔、五町歩区画制度を立案実施して拓殖を推進した〔。1890年3月4日、第二部長を退任〔。 1890年6月12日、元老院議官に就任〔。同年10月20日、元老院の廃止に伴い非職となる〔。1891年12月22日、貴族院勅選議員に任じられ〔、茶話会に所属して東京で死去するまで在任した〔『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』176頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「湯地定基」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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