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湯川 れい子(ゆかわ れいこ、本名:湯野川 和子(ゆのかわ かずこ)〔『わたしが子どもだったころ』(BS hi)より〕、1936年1月22日〔和田靜香『音楽に恋をして』p.23〕 - )は、日本の音楽評論家、作詞家、翻訳家、USEN放送番組審議会委員長、ピースボート水先案内人〔ピースボートステーション 〕。東京都出身。女優時代は吾妻 麗子を名乗っていたこともある〔和田靜香『音楽に恋をして』p.96〕。 == 人物 == 東京府目黒区芳窪町(現・東京都目黒区東が丘)生まれ。父は元海軍大佐の湯野川忠一〔。忠一のいとこ(父湯野川忠世の妹の娘の礼子)は山本五十六の妻〔和田靜香『音楽に恋をして』p.22〕。海軍大将の黒井悌次郎は大叔父(父方の祖母の弟)〔。米沢藩家老の千坂高房は母方の祖先にあたる〔。その他、父方の曾祖父の湯野川忠国は漢学者〔。父方の祖父の湯野川忠世は全国農事会本部幹事でラ・フランスを日本に紹介した人物〔。母方の祖父は仙台の高等裁判官であった〔。長兄の忠成は陸軍中尉だったが戦死。次兄の守正は海軍大尉(海軍兵学校71期生)。第七二一海軍航空隊桜花隊の隊長〔TBSテレビ戦後70年スペシャル『私の街も戦場だったⅡ』、2015年8月15日放送〕で戦後は航空自衛隊空将補を経て日立製作所顧問。ロックバンド「ジン」のVo.ひぃたんは姪にあたる。作曲家の神山純一は甥(姉の息子)〔。 東京府青山師範学校附属国民学校(現・東京学芸大学附属世田谷小学校)在学中、1944年4月12日、父が肺炎で死去。1944年6月から1947年3月まで疎開先の山形県米沢市で過ごした後、東京へ戻り、鴎友学園を卒業する。高校時代から現代俳優協会の研究生となり、1953年には日本青年館で舞台『未亡人』に出演し、女優としてデビュー〔和田靜香『音楽に恋をして』p.60〕。また山本薩夫監督『太陽のない街』に「夫人部員」の端役として出演した他〔、今井正監督『ここに泉あり』に女教師役で出演〔和田靜香『音楽に恋をして』p.71〕。日活配給のB級映画『天下の若君漫遊記』にも端役で出演した〔和田靜香『音楽に恋をして』p.72〕。芸能プロダクション「土曜会」に所属し、有島一郎の髷物コメディ『ありちゃんのおかっぱ侍』というテレビ番組に「芸者・駒子」役で短期間レギュラー出演した他〔和田靜香『音楽に恋をして』p.83〕、芸人として米軍基地を慰問していたこともある〔和田靜香『音楽に恋をして』p.85〕。芸能活動のかたわら、当時の恋人の影響で有楽町のジャズ喫茶「コンボ」に通い、ジャズに親しむ〔和田靜香『音楽に恋をして』p.68〕。 1959年秋、湯川れい子名義(当時の肩書きは「CMタレント」)〔和田靜香『音楽に恋をして』p.251〕による『スイングジャーナル』誌への投稿が大きな反響を呼んだことがきっかけで〔和田靜香『音楽に恋をして』p.90〕同誌編集部員の岩浪洋三から声がかかり、インタビュアーならびにジャズ評論家として1960年から同誌で執筆をはじめる。その後ラジオのDJやワイドショーのコメンテーターなどでメディアに自ら出演。作詞、翻訳、ノンフィクション作家など活躍の場を広げる。日本作詞家協会会長、日本音楽著作権協会(JASRAC)理事、日本大衆音楽文化協会理事も務める。 1965年、エミー・ジャクソンの歌った「涙の太陽」をR.H.Rivers名義で英語で作詞し、当時日本コロムビアの洋楽レーベルであったCBSから発売された。R.H.Riversとは「れい子・湯川」を直訳した「レイコ・ホット・リバース」の略である〔湯川れい子が2010年11月15日に笑っていいとも!に出演した際、本人が自ら語った。〕。同時期に青山ミチのヴァージョンのために日本語詞も書き、その日本語詞がのちに安西マリアに歌われることになる。安西マリア、サンディー、田中美奈子、メロン記念日、川本真琴などがカバーした。 1966年6月にザ・ビートルズが来日した際、湯川は関係者に紛れ込んで宿泊中のビートルズと面会を果たしたが、ジョン・レノンに無視された。ビートルズ解散後、湯川はジョンにインタビューをした時に「あの時なぜ私を無視したんですか?」と質問すると、ジョンもその時のことを覚えていたようで「あの頃、僕らのホテルには売名目的でビートルズに面会したがる政治家連中が大勢いたんだよ。僕らはそういう連中にウンザリしていて、君もそういう人間なんじゃないかと疑ってしまったんだ」と湯川に謝罪した〔2009年9月放送の「爆笑問題の日曜サンデーにて湯川本人が証言。〕。 エルビス・プレスリーの熱烈なファンであり、数多くのライナーノーツを書いている。また、日本におけるプレスリーのファンクラブ幹部も務めている。ラジオのDJ歴は数十年に及ぶ長きにわたっている。ラジオ日本の「アメリカン・トップ40」でのDJは、特に有名であった。 邦楽で好きなアーティストは桑田佳祐、長渕剛〔湯川れい子 @yukawareiko 2014年7月27日6:00 のツイート 〕〔湯川れい子 @yukawareiko 2014年 12月31日20:48 のツイート 〕など。 最初の夫は湯川が小学校6年生の時から湯川の実家に下宿していた男性で一橋大学卒の会社員〔和田靜香『音楽に恋をして』p.44〕。1950年代、女優時代に入籍し〔和田靜香『音楽に恋をして』p.88〕、1966年に離婚〔和田靜香『音楽に恋をして』p.136〕。二番目の夫の田村駿禮(=たかのり、のち熾鴻と改名。当時は電化製品販売会社経営で、のち宝石商となる)とは1972年のエルビス・プレスリーのハワイコンサートが縁で知り合い、エルビスを結婚証明書の証人として1973年8月10日に結婚したが〔和田靜香『音楽に恋をして』p.169〕、1993年に田村の愛人問題と隠し子が発覚し、1998年に正式に離婚した〔和田靜香『音楽に恋をして』p.229〕。 鳩山幸・細川佳代子・下村満子と共にコーラスグループ「スワンシスターズ」を結成し音楽活動を行っている。 原発問題・放射能問題についての団体「オペレーション・コドモタチ」の賛同者でもある〔賛同者 オペレーション・コドモタチ 公式ブログ 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「湯川れい子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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