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湯 玉麟(とう ぎょくりん)は、清末、中華民国の軍人。北京政府・奉天派の張作霖に属し、国民政府時代もその子・張学良に属した。北京政府時代の1926年(民国15年)から満州国建国前後まで、熱河省の統治者であった。字は閣臣。 == 事跡 == === 張作霖への反旗と復帰 === 。清末には東三省講武堂を卒業し〔Who's Who in China 5th ed.,pp.224-225.〕、奉天前路巡防営馬隊管帯、騎兵管帯を歴任した。中華民国成立後は、張率いる第27師で騎兵第27団団長となり、後に第53旅旅長に昇進し、張の側近の1人として台頭した。 ところが1917年(民国6年)、湯玉麟は奉天警務処長王永江の綱紀粛正に反発し、張作霖と対立していた第28師師長馮徳麟の下に合流する〔武育文「馮徳麟」451頁。〕。さらに同年7月、馮の張勲復辟への呼応(実態は反張作霖蜂起)に参加した。しかし、馮はあっけなく敗北して天津に収監され、湯はモンゴル(外蒙古)に逃亡した。翌年、張作霖の赦免を得て、湯は奉天に戻っている。 1919年(民国8年)、湯玉麟は張作霖の顧問となり、安直戦争の際には偵探隊長をつとめる。後に奉天東辺鎮守使兼左路巡防隊統領に任ぜられた。翌年、第11混成旅旅長に昇進し、1923年(民国12年)、第7混成旅旅長に横滑りしている。1925年(民国14年)、第11師師長に、そして翌1926年(民国15年)、安国軍第12軍軍長にそれぞれ昇進した。同年4月、湯玉麟は熱河都統に就任する。以後、1933年(民国22年)まで約7年間、熱河の統治者となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「湯玉麟」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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