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湯目 景康(ゆのめ かげやす)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。戦国大名伊達氏の家臣。後に津田姓を与えられて津田景康と改名した。同名の孫(津田玄蕃景康)と区別するため津田豊前景康と表記される。 == 生涯 == 永禄7年(1564年)、長井郡筑茂城主・湯目重康の子として生まれる。幼名は智喜力。湯目氏は長井郡の在地豪族で、南北朝時代に伊達氏が長井郡を攻略するとその家臣となった。 天正5年(1577年)に伊達政宗が元服するとその側近となり、人取橋の戦い・摺上原の戦い・葛西大崎一揆鎮圧戦などに従軍。天正19年(1591年)、政宗が岩出山に転封されると栗原郡佐沼城主となり、1,500石を知行する。文禄4年(1595年)、政宗が秀次事件に関与したとして謹慎を命じられた際には、中島宗求と共に伏見の津田が原にて豊臣秀吉に直訴し、処分を解くことに成功した。この功により景康は1,000石を加増されるとともに、政宗から津田が原に因んで「津田」の姓を与えられ津田景康と改名した。 慶長5年(1600年)には奉行に任命され、慶長15年(1610年)に亘理郡坂元城主に異動となるが、元和2年(1616年)には大坂夏の陣での功により3,800石に加増されて再び佐沼城主となった。寛永13年(1636年)、政宗の跡を継いだ第2代藩主・忠宗により評定役に任命され、奉行職は嫡男・頼康が引き継いだ。 寛永15年(1638年)2月17日死去。享年75。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「湯目景康」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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