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嗣子鵬 慶昌(ししほう よしまさ、本名:田中 修(たなか おさむ)、1955年8月14日-2006年10月7日)は、長崎県北高来郡森山町(現在の諫早市)大字森山慶師野名出身で、大鵬部屋(入門時は二所ノ関部屋)に所属した大相撲力士である。現役時代の体格は190cm、122kg。最高位は西前頭2枚目(1983年7月場所)。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。 == 来歴・人物 == 横綱・大鵬の内弟子として中学校卒業直前に二所ノ関部屋へ入門し、1971年(昭和46年)1月場所にて、15歳で初土俵を踏んだ。翌年1月には、引退後「一代年寄」となった大鵬親方が二所ノ関部屋から分家独立したのに伴い、大鵬部屋へ移籍。 1977年(昭和52年)5月場所後、同部屋の大真(後の関脇・巨砲)と共に新十両に昇進し、大鵬部屋初の関取となった。 だが、新関取場所となる7月場所を東十両11枚目の地位で迎え7勝8敗の成績で終わると翌9月場所、運悪く3枚下の東幕下筆頭まで陥落させられた(同様の例として、1978年(昭和53年)11月場所を6勝9敗の3点負け越しで終えた次の翌年1月場所では東十両10枚目から4枚下の東幕下筆頭に落とされるなど、番付運は16年間の現役生活において総じて悪かった)。 1979年(昭和54年)9月場所で新入幕を果たし、スピード感ある相撲ぶりで注目されたが、故障がちな事に加えてのんびり屋の性格が災いして幕内には定着できなかった。 横綱・大関陣との対戦圏内には2度進出したが、いずれも大敗している。自己最高位の西前頭2枚目で迎えた1983年(昭和58年)7月場所では、初日に大関・朝潮(現・高砂親方)を降す「銀星」を挙げているが、これが大関以上の力士に対する唯一の勝ち星である。 現役晩年は三段目まで番付を落とし、1987年(昭和62年)3月場所(番付上は同年5月場所)を以って引退。 その後、同年4月から若者頭として日本相撲協会に残っていたが、1991年(平成3年)7月29日付で廃業した。 なお、若者頭の新規採用は、出羽海部屋に所属していた元幕下・出羽ヶ崎が引退後の1962年(昭和37年)4月に就任して以来25年ぶりの事であったという。 以後は、妻の実家がある愛知県中島郡平和町(現在の稲沢市)で、ちゃんこ料理の店「嗣志鵬」を経営した。 2006年(平成18年)10月7日、胃癌及び食道癌のため51歳の若さで逝去。 没後の2011年(平成23年)より、相撲協会退職後も親交があった大鵬部屋時代の弟弟子の元十両・大竜が大嶽部屋を継承した事もあり、大嶽部屋の名古屋場所宿舎として稲沢市の「嗣志鵬」が利用されている。〔宿舎訪問最終回 大砂嵐「ラマダンはダイジョウブ」 中日新聞+ 2013/7/4〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「嗣子鵬慶昌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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