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満洲国の国歌は、国務院佈告として正式に制定された二曲があり、その前にも国歌の為に製作された一曲がある。 == 大滿洲國國歌 == 満洲国が最初の国歌の制作に着手した時期は不明であるが、1932年3月1日の満洲国建国宣言のころにはすでに準備が始まっていたと思われる。1932年5月21日、満洲国体育協会はロサンゼルスオリンピック(1932年7月開催)への選手派遣を同オリンピックの組織委員会に対して正式に申し込んだ。組織委員会は「参加は国際オリンピック委員会 (IOC) の承認による」として国際オリンピック委員会への満洲国の参加申請を促すとともに、組織委員会に対しては国旗と国歌を送付するよう連絡してきた〔入江克己「近代日本における植民地体育政策の研究(第2報)」(『鳥取大学教育学部研究報告. 教育科学』No.36、1994年 P86~87)。本内容は『満州建国十年史』からの引用。満洲国体育協会会長は、この歌の作詞者でもある鄭孝胥である。〕。これに対して、満洲国体育協会がオリンピック組織委員会書記長宛に「国旗・国歌を組織委員会宛に送付した」と記した文書を発信した記録が残っており〔、この段階(1932年5月以前)で歌が完成していたことがわかる。作詞は満洲国の国務院総理であり、文筆家としても知られていた鄭孝胥、作曲は日本作曲界の大御所であった山田耕筰。日本国内では満洲国国歌の完成を新聞等が報じ〔『王道楽土の交響楽 満洲-知られざる音楽史』(岩野裕一著、1999年、ISBN 4276211247)〕、1932年5月にはレコードが発売され(タイヘイレコード No.3355、歌・梅村早苗((山田貞子の変名)))〔「昭和歌謡大全(戦前・戦中編)」 〕〔「SP盤時代名鑑」 (遊々庵)〕、雑誌「月刊楽譜」(昭和7年9月号)には付録として楽譜が掲載された〔が、満洲国内では一切公表されず、結局正式には採用されなかった。不採用の理由は明らかにされていないが、旋律が難解で一般大衆が歌うのは困難、という批判が発表当時からあった(ただし、山田自身にはこの曲への思い入れがあり、後に《建国十周年慶祝曲》の主題として取り入れている)。加えて、満洲国がオリンピックに参加できず〔、発表の場を失ったこと、歌詞の「善守國以仁、不善守以兵(善く国を守るは仁をもってし、善く守らざるは兵をもってす)」の部分に関東軍が不快感を示したこと、などが理由になったと考えられている。 1933年に国歌が制定されると、《大滿洲建國歌》と改題された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「満州国の国歌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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