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満州国有鉄道(満洲国有鉄道、まんしゅうこくゆうてつどう)は、満州国交通部が主に満州中部・北部に所有していた国有鉄道。通称「国線」。現地新聞などでは単に「国鉄」とも呼ばれた。 「国有鉄道」と銘打っていたものの、成立と同時に運営や建設をすべて南満州鉄道に委託したほか、関東軍の介入をたびたび受けていた。このため交通部は設備の保有と路線に関する監督・布告を名目上行うだけにとどまり、傀儡政権ならぬ「傀儡国鉄」の状態であった。 == 歴史 == === 日中間の鉄道敷設競争 === 中国大陸における列強の利権分割は、満州では主に鉄道利権の奪い合いという形で現れた。この結果、日露戦争終結後の1907年以降、満州の鉄道利権は東清鉄道を運営するロシアと南満州鉄道(以下「満鉄」)を運営する日本に二分されてしまう。一方中国資本の入った鉄道路線は満州の西隅を走っている北京-山海関-奉天間の京奉鉄路の他、満州中部にもいくつか存在はしていたものの、前者はイギリス系の香港上海銀行の借款によって建設されていて純粋な中国資本の路線ではなく、後者に至っては1913年に日中間で結ばれた「満蒙五鉄道覚書」、のち1918年に路線を組み直して改めて締結された「満蒙四鉄道覚書」により日本が借款契約を行って敷設したもので、実質的には日本の利権路線であった。 このように列強が中国中の利権を牛耳っている状況に対し、中華民国成立後の1922年頃から、列強を排して中国側に利権を取り戻そうとする政治・軍事活動「利権回収運動」が始まった。満州ではこの運動が鉄道にも及び、日本に対しては満鉄への攻撃となって現れることになった。 これを後押ししたのが、当時満州を実効統治していた奉天軍閥(東三省政権・東北政権)である。張作霖率いる当軍閥は、当初は日本に協力的であったものの、この頃には距離を置くようになり始めていたためである。鉄道に関しても独立姿勢を見せ、1924年には「東三省交通委員会」を設立して、中国資本の鉄道を敷設し始めた。日本側もこれに対抗して1927年にさらに5つの鉄道路線の敷設権を張作霖に認めさせたが、奉天軍閥側も負けじと鉄道建設を続行する。 ここで出て来たのが、かねてから奉天軍閥の離反を何とかしたいと思っていた関東軍であった。彼らは1928年6月4日に張作霖を暗殺(張作霖爆殺事件)、奉天軍閥を恫喝したが、後を継いだ張学良は態度を硬化させて南京国民政府に合流、徹底した「反日」を掲げて行動し始めた。 その行動は鉄道政策にも現れた。張学良は軍閥を継ぐや、東三省交通委員会を「東北交通委員会」に改組するとともに、満鉄の路線を包囲して兵糧攻めとする作戦に出た。彼はまず京奉鉄路の途中から分岐する葫蘆島支線の終点・葫蘆島に新港を建造し、そこを起点に満鉄を東から西から並行して取り囲むような路線網を計画したのである。 これは満鉄にとっては手痛い打撃となった。互いに何十キロも離れての並行ではあったが、それまでそこを遠しとしても満鉄に運ばれていた貨物が、中国側に流れてしまったからである。また、1913年・1918年に交わした覚書中にある路線まで先を越されて作られ、現有していた鉄道敷設権も危機に瀕することになる。日本側は、日露戦争終結時に「満鉄の並行路線は作らない」とした「日清満洲善後条約に関する秘密協定」に反するとして猛抗議をしたが、並行線の定義がないこともあり、奉天軍閥は一切聞く耳を持たず、鉄道をめぐる両者の対立は深まって行った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「満州国有鉄道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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