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源実朝 : ミニ英和和英辞書
源実朝[みなもとのさねとも]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みなもと, げん]
 【名詞】 1. source 2. origin 
: [み, じつ]
 【名詞】 1. fruit 2. nut 3. seed 4. content 5. good result 
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

源実朝 : ウィキペディア日本語版
源実朝[みなもとのさねとも]

源 実朝(みなもと の さねとも、實朝)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍
鎌倉幕府を開いた源頼朝の四男(頼朝の子としては第6子で四男、政子の子としては第4子で次男)として生まれ、兄の頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。
歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として金槐和歌集がある。小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。
== 生涯 ==

=== 将軍就任 ===
建久3年(1192年)8月9日の刻、源頼朝の次男として鎌倉名越北条時政の屋敷・浜御所で生まれる。幼名は千幡。母は頼朝の流人時代に妻となっていた北条政子。乳母は政子の妹である阿波局が選ばれ、大弐局ら御所女房が介添えをした。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われた。12月5日、頼朝は千幡を抱いて御家人の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ面々に千幡を抱かせた。
建久10年(1199年)に父・頼朝が薨去し、兄の頼家が将軍職を継ぐ。建仁3年(1203年)9月、比企能員の変により頼家は将軍職を失い伊豆国に追われた。母・政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、弟の千幡への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に実朝を従五位下征夷大将軍に補任した〔『吾妻鏡』建仁3年9月15日条には征夷大将軍補任の宣旨が下されたと記されているが、『猪隈関白記』9月7日条には内大臣藤原隆忠上卿として従五位下征夷大将軍補任の除目が行われて後鳥羽上皇が「実朝」という名を定めたと記されており(同一の補任に対して除目と宣旨が同時に行われることはない)、両者の記事は矛盾しており同時代史料である後者が正しい可能性が高い(参照:北村拓「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」(所収:今江廣道 編『中世の史料と制度』(続群書類従完成会、2005年) ISBN 978-4-7971-0743-2 P137-194))。〕。
10月8日、遠江国において12歳で元服し、実朝と称した。儀式に参じた御家人大江広元小山朝政安達景盛和田義盛ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は平賀義信が行った。24日にはかつて父の務めた右兵衛佐に任じられる。翌年、兄・頼家は北条氏の刺客により暗殺された。
元久元年(1204年)12月、京より坊門信清の娘・信子を正室に迎える。正室ははじめ足利義兼の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた〔実朝の婚姻は頼家の母方の北条氏と妻方の比企氏が衝突した比企能員の変の翌年のことであり、一概に実朝の京都・貴族志向の表れとは解することは出来ない。〕。
元久2年(1205年)1月5日に正五位下に叙され、29日には加賀介を兼ね右近衛権中将に任じられる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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