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源延伯(げん えんはく、504年 - 527年)は、北魏の軍人。本貫は西平郡楽都県。 == 経歴 == 源子雍の長男として生まれた。518年(神亀元年)、司空参軍事を初任とした。521年(正光2年)、南秦州の民の呉富が反乱を起こし、河間王元琛が都督として鎮圧に向かうと、延伯は叔父の源子恭の下で軍司となった。統軍となり、戦闘では必ず先鋒に立った。源子恭は延伯が年若いことから、猪突を戒めたが制止することができなかった。父の源子雍が夏州刺史となり、洛陽の朝廷に援兵を要請すると、延伯は孝明帝の命により羽林1000人を率いて夏州に赴いた。延伯の戦闘での勇猛さは軍中で第一であった。524年(正光5年)、源子雍が城中で不足している兵糧を求めるため東夏州に向かうと、延伯は統万城(夏州州城)の留守を任された。延伯は兵士と食事を分かち合いながら、城の防御を固めた。源子雍が朔方の胡族に捕らえられて、統万にもその報が届いたが、延伯は落ちついて城内の人々を諭したため、人心が動揺することなく防戦をつづけることができた。朝廷にこの評判が届き、延伯は龍驤将軍・行夏州事に任じられ、五城県開国子に封じられた。源子雍が東夏州と夏州の反乱軍を撃破するまで、延伯はついに統万城を守りきることができた。源子雍が華州の反乱軍を討つべく出立すると、延伯は兵を率いて父に従い、自ら康維摩を捕らえ、白水で宿勤阿非を撃破した。爵位は浮陽伯に進み、官は諫議大夫となった。527年(孝昌3年)、仮の冠軍将軍の号を受け、別将として父に従って冀州に向かった。12月、漳水の曲で葛栄の大軍と戦い、戦没した。享年は24。持節・平北将軍・涼州刺史の位を追贈された。 子の源孝孫が後を嗣いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源延伯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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