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源 有綱(みなもと の ありつな)は、平安時代末期の武将。伊豆守源仲綱の次男。大内守護源頼政の孫。 == 生涯 == 治承4年(1180年)、祖父・頼政、父・仲綱らが以仁王を擁して挙兵し敗死した際には、有綱は頼政の知行国であった伊豆にあり難を逃れた。直後に同地で配流の身であった源頼朝が挙兵するとその麾下に入り、父祖の仇敵である平家討滅を目指すこととなる。 寿永元年(1182年)、頼朝の命により土佐に出陣する。これは頼朝の同母弟の希義を殺害した蓮池家綱・平田俊遠ら平家方勢力の掃討を目的としており、土佐出身の御家人・夜須行宗を先導に立てたものだった。この戦いで有綱は行宗とともに大軍を統括し、蓮池らを討ち果たすことに成功している。これと前後して、頼朝の弟である源義経の与力に組み込まれる。家柄や官位、年の頃も義経と差はなく、家臣というより同盟者に近い関係であったとも考えられている。 また『吾妻鏡』の元暦2年(1185年)5月19日条に、有綱が義経の聟であると称して多くの荘園公領を掠め取っているとの記録がある事から、有綱は義経の女婿とされている。しかし義経が平泉時代に娘をもうけたとしても10歳未満であり、すでに成年である有綱とは年齢が合わず、養女の可能性が高い(#有綱の妻についての節を参照)。そのことの真偽はともかく、有綱が義経の忠実な部将として行動したのは事実であり、頼朝と義経が対立した後も都を落ちる義経の一行に加わっている。途中、同族多田行綱等との合戦(河尻の戦い)にも加わったものと考えられ、九州へ向かう船が暴風雨によって難破し一行が離散した時も、有綱と武蔵坊弁慶、堀景光、静御前の4人のみが残っており、義経と共に吉野山に逃げ込んでいる。 その後義経と別れ、有綱は郎党と共に大和国宇陀郡に潜伏するが、文治2年(1186年)6月16日、義経の残党を捜索していた北条時定の手勢に発見され、合戦の末に敗北し深山に入って自害した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源有綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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