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源為義(みなもとのためよし)は、平安時代末期の武将。祖父が源義家、父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。なお父は源義家で、源義親と義忠は兄にあたるという説もある。通称は六条判官、陸奥四郎。 当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。 == 生涯 == === 生い立ち === 永長元年(1096年)、源義親の四男として生まれる〔『尊卑分脈』の記載から源義親の四男とする見解が一般的であるが、佐々木紀一は『尊卑分脈』成立以前の中世系図(北酒出本『源氏系図』、長楽寺本『源氏系図』、妙本寺『源家系図』、『佐竹家系譜』)や藤原忠実の日記『殿暦』天仁2年2月17日条の「義家朝臣四郎男為義」の文言などから、為義は義家の四男であったとする説を提唱している(「源義忠の暗殺と源義光」『山形県立米沢女子短期大学紀要』45、2009年)。〕。『尊卑分脈』の為義傍注によれば、父の義親が西国で乱行を起こしたため、祖父・源義家は三男・義忠を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。この記述に従えば、幼少の為義は叔父の義忠や祖父の義家と共に京にいたと思われる〔『尊卑分脈』によれば義親の男子は、為義を含めて6人いる。義親の正室は肥後守・高階基実の娘であるが、義父の基実は義親の乱行により肥後守を罷免され、贖銅の刑を科された。角田文衛は、義信(長男)・義俊(次男)・義泰(三男)・義行(五男)がそれぞれ対馬太郎・対馬次郎・対馬三郎・対馬四郎の呼び名を持つことから、この4人が正室所生の同母兄弟で、為義は庶子だったのではないかと推測している。為義の母の項目には「同義国、中宮亮有綱女」とあるが、これは義家の妻(義国・義忠の母)が為義を養育していたことを示すものと考えられる(角田文衛「源為義の母」『王朝の明暗-平安時代史の研究 第2冊』東京堂出版、1977年)。また、為義を義家の四男とする説(佐々木紀一「源義忠の暗殺と源義光」『山形県立米沢女子短期大学紀要』45、2009年)を採るならば、「同義国、中宮亮有綱女」の記述は養母ではなく実母ということになる。〕。 嘉承元年(1106年)に義家が死去すると義忠が家督を継ぐが、天仁2年(1109年)に暗殺された(源義忠暗殺事件)。義忠の叔父・源義綱一族が嫌疑を受けて追討の対象になると〔『尊卑分脈』の義忠傍注によれば義綱は冤罪であり、真犯人は義綱の弟の義光とされる。〕、義忠の嫡男・経国が幼少であったため、為義は美濃源氏の源光国と共に追討使に起用され、義綱を捕縛して京へ凱旋した。この功により、為義は14歳で左衛門少尉に任じられた。 初期の為義は院との関係が深く、摂関家と懇意だった様子はない。『愚管抄』には白河法皇が「光信、為義、保清の三人を検非違使に任じ、即位したばかりの鳥羽天皇を警護させた」とあり、永久の強訴や保安4年(1123年)の延暦寺の強訴では平忠盛と並んで防御に動員されるなど、院を守護する武力として期待されていたことが分かる。為義の最初の妻も白河院近臣・藤原忠清の娘で、長男の義朝を産んでいる。保安5年(1124年)頃には検非違使に任じられた。しかし、同い年で任官もほぼ同時だった忠盛が受領を歴任したのに対して、為義は一介の検非違使のまま長く留め置かれ、官位は低迷することになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源為義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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