|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 源 : [みなもと, げん] 【名詞】 1. source 2. origin ・ 義 : [ぎ] 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor
源義親の乱(みなもとのよしちかのらん)は平安時代中期に起きた反乱。康和の乱、源義親追討事件などとも言われる。 源義家の子の義親が九州で略奪を行い、官吏を殺したため、隠岐国へ流された。だが、義親は出雲国で再び目代を殺害して官物を奪う乱暴を働いた。父の義家の死後、白河法皇の起用により平正盛が派遣され義親は誅された。義親の首は京都で梟されたが、生存の噂が絶えず、その後、次々に「義親」を名乗る者が現れ、事件の余波は20年以上に渡って続いた。乱後に河内源氏では内訌が続き大きく凋落する。一方、平正盛による義親追討は伊勢平氏の台頭の契機となった。 == 背景 == 源義家は後三年の役で清原氏と戦って勝利したが、朝廷は私戦として論功行賞を認めなかった。このため義家は従軍した軍士に私財をなげうって報償し、これによって東国武士、百姓の義家への尊崇は絶大なものになっていた。京都でも義家の威名は高まり「天下第一の武勇の士」と呼ばれた。 この頃は摂関政治に代わる院政の時代で、白河法皇が「治天の君」として専制権力を振っていた。白河法皇は義家の武力を身辺警固に大いに活用する一方で、前陸奥守のまま昇進はさせず、あまつさえ寛治5年(1091年)には諸国の百姓に義家への田畑の寄進の禁止を命じる宣旨を出し、その力を抑え込もうとした。 一方で、法皇は義家の対抗馬を用意し、弟の義綱を積極的に起用し、同7年(1093年)に出羽国で平師妙・師季が叛乱を起こすと起用して鎮圧させ、義綱は師妙・師季の首を掲げ堂々行列して京都へ凱旋した。義綱は賞により従四位下に叙せられ、美濃守に任じられた。この義綱と義家の仲は極めて険悪だった。 それでも、義家の声望は依然として高く、承徳2年(1098年)法皇は義家に院の昇殿を許し、義家は感激したが、武士の身分を低く見る当時の公卿社会はこれすらも納得しない風潮だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源義親の乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|