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源 重資(みなもと の しげすけ)は平安時代中期から後期にかけての公卿。醍醐源氏、権中納言・源経成の子。 == 経歴 == 醍醐源氏の権中納言経成の子として寛徳2年(1045年)に生まれる。康平6年(1063年)19歳で父と同じく諸陵助より官につく。康平8年(1065年)に式部少丞に転じて(翌年大丞に昇任)、治暦3年(1067年)23歳で式部丞の労で従五位下に叙爵。同年越後権守に叙任される。 延久元年(1069年)に右馬助、承保2年(1075年)に右衛門佐と武官に転じるが、同年少納言に任官。承保4年(1077年)に従五位上に進み、承暦2年(1078年)に紀伊権守を兼ねる。承暦5年(1081年)に少納言の労で正五位下に昇叙。その後右少弁に任ぜられた後は弁官として位を進めていく。修理右宮城使・摂津権守を兼帯し、寛治6年(1092年)に左少弁、寛治8年(1094年)に権右中弁に昇任。嘉保2年(1095年)に従四位下に叙せられた。 嘉保3年(1096年)の永長の大田楽においては源信雅らとともに小鼓を打っている。 承徳2年(1098年)従四位上・権右中弁に叙任。康和2年(1100年)には56歳にして正四位下・蔵人頭となり公卿昇進を目前とする。率分勾当・越前権守・修理右宮城使を兼帯して康和4年(1102年)に正四位上に昇叙。長治3年(1106年)に装束使であった重資は白馬節会の際に宣命のことで怠状を召される〔『殿暦』長治3年正月11日条。〕が、同年さらに土佐権守を兼ねて嘉承元年12月(1107年1月)に63歳で参議に任ぜられて公卿に列し、左大弁に転じる。翌年には勘解由長官・近江権守を兼帯した。 嘉承3年(1108年)従三位に進み、天永2年(1111年)備前権守を兼ねる。永久元年(1113年)には正三位となり、永久3年(1115年)に宣命により権中納言に任ぜられた。永久5年(1117年)宮内卿を兼ねるがほどなくして大宰権帥に転じて現地に赴任する。なお、重資を最後に大宰権帥は遙任化していった。 元永2年(1118年)に罷申(任国赴任の際の挨拶)の儀の際に勅命で従二位に叙せられて御衣を賜った〔『中右記』元永2年8月2日条。〕。保安2年(1121年)に権帥を辞して京に戻り、翌保安3年(1122年)8月に78歳で薨去。重資の邸宅であった中御門邸は嘉承2年(1107年)に白河院の御所となり、嘉承3年(1108年)には藤原忠実の邸宅となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源重資」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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