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源 頼俊(みなもと の よりとし、生没年不詳)は、平安時代後期の武将・歌人。加賀守源頼房の長男。 == 経歴 == === 延久蝦夷合戦 === 治暦3年(1067年)、陸奥守に任ぜられる。延久2年(1070年)、後三条天皇の勅命により蝦夷征伐に赴き、清原貞衡(清原真衡とする説、清原武貞とする説、清原武則の弟とする説、海道平氏出身で武貞の娘婿とする説などがある)の助勢によって蝦夷らの支配する津軽、下北半島のあたりまで征伐を行った。その間、延久2年(1070年)12月26日に記された頼俊の解状によれば、陸奥国南部に領地のあった散位藤原基通などの梟悪之者が官物や公事を拒否した上、国印と国倉の鍵を奪うという事件が発生した。この折、朝廷の命により下野守に任ぜられた源義家の助勢によって、この争いを平定しているという事件まで起きている。 基通は義家の意を受けて頼俊が陸奥に勢力を伸ばすのを妨害するために事件を起したとも見られている。ちなみに、同じ解状には「荒夷(あらえびす)が兵を発し、黎民が騒擾す」とあり、蝦夷が依然として朝廷の支配に服さぬことを記している。治暦3年(1067年)以来、清原氏の助力を以って衣曾別嶋荒夷(えぞがわけしまあらえびす)”と“閉伊七村山徒を平定し日本の東端(北端)を津軽海峡まで到達させたこの大規模な一大事業は延久6年(1074年)まで行われ、後に延久蝦夷合戦といわれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源頼俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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