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源 顕房(みなもと の あきふさ、長暦元年(1037年) - 嘉保元年9月5日(1094年10月16日))は、平安時代後期の公卿・歌人。村上源氏。右大臣源師房の次男。兄は源俊房。妻は源隆俊の娘・隆子。子に賢子、雅実、顕仲、雅俊、国信、師子、顕雅、雅兼などがいる。六条右大臣とも称される。生年は1026年説もある。 == 生涯 == 永承2年(1047年)祐子内親王の御給により叙爵。同年に元服して従五位下に叙される。侍従・近衛中将を経て蔵人頭に補任され、後冷泉天皇に6年にわたって近侍した。1061年(康平4年)参議に至る。1083年(永保3年)兄左大臣俊房と並んで右大臣に任じられる。娘の賢子が白河天皇との間に生んだ善仁親王が天皇に即位する(堀河天皇)と、村上源氏の主流となった。なお、顕房は久我に別荘を造営したことから、その後の久我家の家名の由来となった。 1094年(嘉保元年)、赤痢のため自邸(六条大路北・室町西)で薨去。後に正一位が追贈された。 日記に六条右府記がある。その逸文は大饗御装束間事に永保3年正月22日、26日、正月条が、園太暦貞和2年4月28日条に永保3年2月正月27日、28日、3月5日条がある。歌人としても優れ、『後拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に14首の和歌が入集する。また天喜4年(1056年)5月に頭中将顕房家歌合(「六条右大臣家歌合」)を主催したほか、承暦2年(1078年)4月の内裏歌合、及び寛治7年(1093年)5月の郁芳門院(媞子内親王)根合で判者を務めるなど活躍した。『大鏡』の作者とする説もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源顕房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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