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溝口氏(みぞぐちし)は、日本の氏族の一つ。甲斐源氏武田氏の庶流で、尾張国中島郡溝口郷(溝口村)に土着し溝口氏を称した。 == 概要 == 織田信長の時代、溝口秀勝は丹羽長秀に仕え天正9年、長秀より若狭国高浜城5000石を給された。信長の死後、豊臣秀吉に仕え、明智光秀や柴田勝家の遺臣たちを迎え入れて家臣団を構成していった(新発田藩の「家臣団の形成」参照)。 天正12年、長秀の遺領に堀秀政が封じられると、秀政の与力として加賀大聖寺4万4000石を領する。秀政と共に、九州征伐や小田原征伐など各地を転戦し、2代目の溝口宣勝は秀政の娘を妻とした。この妻はのちに長寿院と称され、堀家が除封されたのちは堀直清の次男と六男を招き入れている。 慶長3年(1598年)、溝口家は堀秀治とともに越後へ移封され、新たに新発田藩6万石を領する。関ヶ原の戦いでは堀家と共に東軍に属し、戦後所領を安堵される。その後外様大名の改易や除封が相次ぐと、越後や会津、大坂の陣の落人など、近隣の諸藩からの浪人を受け入れて家臣団を構成した。溝口家が除封されなかった要因としては、浪人を多く受け入れていたため、改易した場合にさらなる社会不安を引き起こすとの判断もあったように思われる。一族は明治維新まで新発田藩主を勤め、維新後は新発田県知藩事にも就任し、華族に列せられた。なお、江戸時代に溝口氏の"お膝元"であった歴史から、新発田市は溝口家の家紋である溝口菱を市章としてそのまま用いている。 同藩の家老に溝口内匠、溝口伊織の家系があり、もとは加藤姓、土橋姓であったが溝口姓を賜ったものである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「溝口氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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