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溝口 直侯(みぞぐち なおとき / なおよし、安永7年〔『寛政重修諸家譜』では安永元年生まれとするが、ここでは新発田藩「御記録」(『新発田市史資料第一巻 新発田藩史料(1)』所収)に拠った。〕5月17日(1778年6月11日) - 享和2年8月29日(1802年9月25日))は、越後新発田藩の第9代藩主。第8代藩主溝口直養の養嗣子・直信の長男。血縁上は直養の甥にあたる。幼名は亀次郎。官位は従五位下出雲守。なお、将軍世子が徳川家慶(いえよし)と改名した際、直侯はこれを憚って諱の読みを「なおよし」から「なおとき」に改めている。母は上野館林藩主・越智松平武元の娘侶姫(観如院)。正室は肥後人吉藩主・相良長寛の娘・慶姫(璟姫)。死別後、公家・久世通根の娘・布喜姫を継室とした。 == 経歴 == 天明6年(1786年)、父・直信が家督相続以前に没したことにより、8代藩主で伯父にあたる直養の嫡孫となり、同年に直養の隠居に伴い家督を相続する。当時は数え年9歳と幼少であったため、直養が当面後見をすることとなった。寛政元年(1789年)、「清涼院様一件」(後述)が起こり、その裁定に入った縁戚で老中松平信明が後見をすることとなる。同年には越後国蒲原郡の領地のうち2万石を陸奥国田村郡・楢葉郡・信夫郡のうちに移される。同4年(1792年)、従五位下出雲守に叙任。享和2年8月29日(1802年9月25日)、江戸において25歳で死去した。法号は修徳院殿前雲州大守温山良恭大居士。江戸駒込の吉祥寺に葬る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「溝口直侯」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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