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溝口直養 : ミニ英和和英辞書
溝口直養[みぞぐち なおやす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう, みぞ]
 【名詞】 1. ditch 2. drain 3. gutter 4. gap 
: [くち]
 【名詞】 1. mouth 2. orifice 3. opening 
: [ひた, ちょく]
 【名詞】 1. earnestly 2. immediately 3. exactly

溝口直養 : ウィキペディア日本語版
溝口直養[みぞぐち なおやす]
溝口 直養(みぞぐち なおやす、元文元年11月23日1736年12月24日) - 寛政9年7月26日〔『寛政重修諸家譜』では閏7月1日歿とするが、ここでは新発田藩「御記録」(『新発田市史資料第一巻 新発田藩史料(1)』所収)に拠った。幕府への届け出が閏7月1日付だった可能性がある。〕(1797年8月18日))は、越後国新発田藩の第8代藩主。第7代藩主溝口直温の長男(庶子)。幼名は亀次郎。通称は主膳。ははじめ直範、のち直養と改める。官位は従五位下。主膳正。浩軒と号す。母は側室・美代(御長屋様、森氏)。正室は迎えなかったが、数名の側室が居た。
== 生涯 ==
父・直温の長子であったが庶子のため、当初は世子とされなかった。しかし弟で世子の亀之助(直経)が病身のため、宝暦10年(1760年)に廃嫡となると、これに代わって世子となり、将軍徳川家治御目見した。同年、従五位下主膳正に叙任する。翌11年(1761年)、直温の隠居により家督を継いだ。
宝暦13年(1763年)、前代に幕府領から新発田藩領となった村々のうち34か村1万9700石余を上知され、代地として旧領の43か村が返還された。明和元年(1764年)、神奈川宿において朝鮮使節の接待役を勤める。同3年(1766年)、甲州川々の手伝い普請を勤める。安永6年(1777年)、前代に藩領となった村々のうちさらに39か村1万1500石余が上知され、代地として旧領の33か村が返還された。
天明6年(1786年)閏10月6日、病身を理由に隠居し、養子としていた弟・直信の長男である直侯に家督を譲った。しかし、直侯は幼少であったため、直養は隠居後もしばらくは後見をおこなった。寛政9年(1797年)7月26日、江戸において62歳で死去した。法号は永照霊光院(霊光院殿前典膳郎寂室永照大居士とも)。江戸駒込吉祥寺に葬る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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