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滕 牧(とう ぼく、? - ?)は、中国三国時代の呉の武将・政治家。青州北海郡劇県の人。改名前の名は滕密と言い、丁密と名が一緒であったため、お互いに改名した。娘は滕皇后(孫皓の皇后)。同族に滕胤。 == 生涯 == 太平元年(256年)、滕胤が孫綝と相争い戦って死去し、彼の三族も処刑された時、滕牧は滕胤の遠縁だったので、辺境の郡へ強制移住させられた。 孫休が即位して孫綝一味を誅殺すると、大赦を行なったおかげで滕牧は都へ戻る事ができ、五官中郎に任ぜられた。また孫皓は烏程侯に封ぜられた後、滕牧の娘を娶って妃とした。 元興元年(264年)七月、孫休が亡くなり孫皓が即位すると、滕夫人が皇后に立てられ、滕牧は高密侯に封ぜられた上で、衛将軍・録尚書事の官を授かった。 甘露2年(266年)、丁忠が西晋より帰還すると、孫皓は群臣を集めて盛大な宴会を催したが、王蕃が酔った振りをしているとして怒り、側近に王蕃の処刑を命じた。滕牧と留平が取り成したが聞き入れられず、結局王蕃は処刑された。同年十二月、孫皓が都を武昌から建業へ戻すと、滕牧は命を受け武昌に留まり、旧都の守りにあたった。 朝臣たちは孫皓の暴虐が極まると、滕牧が外戚であったことから、幾度も滕牧を推し立てて孫皓に諌めの意見を言上させた。しかしその頃、既に孫皓の滕夫人に対する寵愛が冷めかかっていたため、孫皓はますます機嫌を悪くした。それが積み重なったため、ついに滕牧は宮廷を追われて蒼梧郡に強制移住させられた。爵位こそ奪われなかったものの、島流しに近い状態であったため、滕牧は蒼梧郡に移住する途中で憂いのあまり死去してしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「滕牧」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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