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滝川氏(たきがわし、旧字体:瀧川氏)は、日本の氏族。家紋は丸に竪木瓜。本姓は紀氏を称するが〔『寛政重修諸家譜』第4輯、442頁。〕、伴氏の後裔、あるいは楠木氏、甲賀氏とする説もあり、その出自は判然としない。織田信長の重臣・滝川一益を輩出した家系の他に、一益より滝川姓の名乗りを許された家臣の滝川忠征と娘婿の滝川雄利を祖とする家系がある。 == 概要 == === 紀姓滝川氏 === 紀姓滝川氏は、紀長谷雄の子・致雄(むねお)の11世の孫に当たる近江国一宇野城主・滝川貞勝の子である資清(一勝)が滝城に移り、滝川を称したことに始まるという〔。戦国時代には資清の子とされる一益が織田信長の重臣として活躍するが、信長が天正10年(1582年)に本能寺の変で没した後は精彩を欠き没落した。なお、滝川氏から池田氏に婿入りした池田恒利の子・恒興は一益と入れ替わりで清洲会議に出席、更に徳川家康政権下で急速に勢力を拡大し、近世大名として明治まで続いた。 信長の死後、滝川氏は所領を失って没落したが、一益の子孫は旗本や大名家の家臣として後世に家名を伝えている。 * 長男の一忠は豊臣秀吉に蟹江城合戦の敗戦の責任を問われて追放処分となり、以後は仕官せず浪人として過ごしたが、一忠の子・一積は親類の米子藩主・中村一忠に仕えた後、本家の名代を経て、別家の1,000石の旗本となった。一積は寛永9年(1632年)に妻の実家の真田氏に便宜を図ったとして改易されたが、寛文3年(1663年)に一積の嫡子・一明が300俵で召し出され、再び幕臣となっている。 * 次男の一時は滝川家の家督を継いで1万4,000石の大名となり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本隊の一員として戦ったが、慶長8年(1603年)に早世した。嫡男・一乗は幼年であったため、1万2,000石を没収されて2,000石の旗本となったが、滝川本家として存続し、子孫は一乗の長男・一俊の系統と一乗の四男・一成の系統に分かれた。 * 三男の辰政は織田信包や小早川秀秋などに仕えた後、姫路藩主・池田輝政に仕官し、子孫は池田家の転封により岡山藩士となった。滝川事件で知られる京都大学総長・瀧川幸辰は辰政の子孫である。 * 四男の知ト斎は鳥取池田家へ御預けとなり、この知ト斎の三男・十左衛門一路が家督を継いで鳥取藩主・池田光仲に召抱えられた。知ト斎の四男・権左衛門は浪人となったが、寛永15年(1638年)に兄・一路の家より分家独立し、ト玄斎一賀と称して鳥取で医業をした。このト玄斎一賀が鳥取の医家瀧川家の初代となる。 一益の従兄弟とも甥とも伝わる滝川益氏(あるいは滝川益重)の次子・慶次郎利益は前田利久の養子となり、前田氏に仕えた。後に出奔し上杉景勝に再仕官しているが、利益の子・正虎は加賀にとどまり、前田利常に仕えている。 また、一益の家老を務めた木全忠澄の子・忠征が一益より滝川姓の名乗りを許されており、子孫は6,000石を領する尾張藩士として存続している。時成の系統が忠征の跡を継いで尾張藩士となり、法直の婿養子・直政の系統は2,010石余りの旗本となった〔『寛政重修諸家譜』第4輯、447-448頁。〕。なお、木全氏の本姓は紀氏とされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「滝川氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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