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滝沢正光 : ミニ英和和英辞書
滝沢正光[たきざわ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たき]
 【名詞】 1. waterfall 
: [さわ]
 【名詞】 1. (1) swamp 2. marsh 3. (2) mountain stream 4. valley 5. dale 
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [ひかり]
 【名詞】 1. light 

滝沢正光 ( リダイレクト:滝澤正光 ) : ウィキペディア日本語版
滝澤正光[たきざわ まさみつ]

滝澤 正光(たきざわ まさみつ、1960年3月21日 - )は日本の元競輪選手である。千葉県八千代市出身。師匠は長岡弘臣。1980年代から1990年代にかけ、中野浩一、井上茂徳らとともに競輪黄金時代の一翼を担った〔中野2004、89頁。〕。現在は日本競輪学校第23代校長(名誉教諭兼務)。
== 経歴 ==
千葉県八千代市立勝田台小学校→同勝田台中学校千葉県立八千代高等学校卒業、中学・高校時代はバレーボール部に所属。バレーボールに熱中し、競輪とは無縁の環境で育った〔中野2004、84-85頁。〕が、「自転車に乗れなくても競輪選手になれる」という新聞広告を目にしたのがきっかけで、適性試験を受けて日本競輪学校に入学した〔中野2004、85頁。〕。自転車競技の経験のなかった滝澤は入学後、それまでバレーボール向きに鍛えていた筋肉を自転車向きに造り変える必要に迫られ、「人より1時間でも1分でも長く」自転車に乗ることを心掛けた〔。この習慣はプロデビュー後も続き、自転車に長時間乗るという練習方法を徹底的に実践した。若手時代には1日の練習時間は最低8時間、走破距離は200kmに及んだという〔中野2004、85頁。〕。ウエートトレーニングなど他の練習方法も試してみたが、しっくりこなかったという〔。
日本競輪学校第43期卒業。1979年4月1日に選手登録。初出走は1979年4月8日大津びわこ競輪場でこのレースで初勝利を挙げた。しばらく思うように勝てなかったが、人並み外れた練習量をこなすことにより徐々に力をつけていった。
滝澤がデビューした当時の競輪界は中野浩一の全盛期で、同じ九州の井上茂徳と共に特別競輪(現在のGI)のタイトルを分け合う状態が続いていた。それに対抗するため東京山口国男が中心となり、弟の山口健治尾崎雅彦清嶋彰一らと千葉吉井秀仁、正光らに特別競輪において東京と千葉で共闘し、中野ら九州勢を倒すことを呼びかけた。
東京と千葉は自転車競技会の管轄が違うので本来ならば共闘はありえないが千葉県松戸競輪場は東京北東部の選手も所属している事から交流があり、彼らが特別競輪前の合宿などで館山市を走る房総フラワーラインという道路をよくロード練習で利用していたことからこの共闘団結は自然に「フラワーライン」と呼ばれるようになった。滝澤はこのフラワーラインの中心的な役割を担うようになる。一瞬のダッシュ力では一流選手よりも劣ることを自覚していた滝澤〔中野2004、88-89頁。〕は、とにかく積極果敢に先行して最後はラインの誰かが勝てばいいという心構えでレースに臨み、やがて日本一の先行選手を目指すようになった〔中野2004、86頁。〕。
1980年、初出場のオールスター競輪で準決勝に進み一流選手の仲間入りを果たした。ところが中野の壁は厚く、1983年競輪祭決勝でも捲られ3着に終わるなどその先行は中野に通用せず敗れ続けた。しかし1984年千葉競輪場での日本選手権競輪でフラワーラインの連携が実ってデビュー5年目にしてついに中野を倒し、初タイトルを手に入れた。優勝インタビューは感極まって落涙。言葉にならず叫ぶように「競輪選手になってよかった」と言うのがやっとだった。
その後も正光はますますその脚力に磨きをかけ、フラワーラインの他選手の援護もあってタイトルを量産していった。特に1987年は13場所連続優勝に加え特別競輪の3連覇、KEIRINグランプリ獲得とその年の獲得賞金額(1億1400万円)は当時プロ野球最高年俸の落合博満を抜いて全プロスポーツ界最高の金額であった。
やがて選手勢力の変化などによりフラワーラインは自然解消していったが正光の勢いは衰えることなく、1990年11月27日小倉競輪場での競輪祭を制したことで井上茂徳以来史上2人目となる特別競輪全冠制覇(グランドスラム・当時は5冠)を成し遂げた。1992年には最も得意としていた高松宮杯競輪で5回目の優勝を果たすがこのレースの翌日に2着だった中野が引退を発表したため、3着だった井上茂徳と共に初めて表彰台で3人が並んだことは自らが中野・井上・正光のいわゆる「3強時代」に引導を渡すことにもなった。
30代になると、「最終周回のバックストレッチでトップに立っていれば勝てる」と自認していた地脚に衰えを感じ、脚質を先行から自在型に移行させていった〔。ただし先行への未練は断ち難く、本当の意味で自在型となったのは30代後半になってからであったという〔中野2004、86-87頁。〕。体力の衰えはトレーニング法にも影響を及ぼした。練習方法を長時間自転車に乗るやり方から短時間に集中して乗るやり方に切り替え、1日の練習時間は4、5時間、走破距離にして100kmほどに落とした〔中野2004、87頁。〕。
45歳を超えてもなおS級の選手として活躍していたが、近年の体力の衰えは隠せず、2008年7月1日からS級からA級への降格が決まり、これを受けて滝澤正光は「A級に下がってまで走り続けるつもりはない」として、降級を待たずして現役を引退することを決意。2008年6月24日富山競輪開設記念最終日2R(8着)が最後の競走となり、後日周囲に引退の意思を公表し、6月27日に現役引退記者会見を行った〔滝澤正光、引退を決意 デイリースポーツ 2008年6月25日閲覧〕。6月30日、選手登録削除。
滝澤のホームバンクであった千葉競輪場では、彼の功績を称え、2008年より記念競輪
GIII) のタイトルを、それまでの「秋桜杯」から「滝澤正光杯」と改めて開催することとなった。
通算成績は2457走中787勝。優勝回数150回。生涯獲得賞金は17億5644万円で、神山雄一郎(現役、2008年6月現在22億2000万円超)に次ぐ歴代第2位。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「滝澤正光」の詳細全文を読む




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