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滝野川ゴボウ : ミニ英和和英辞書
滝野川ゴボウ[たきのがわごぼう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [たき]
 【名詞】 1. waterfall 
: [の]
 【名詞】 1. field 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 

滝野川ゴボウ : ウィキペディア日本語版
滝野川ゴボウ[たきのがわごぼう]

滝野川ゴボウ(たきのがわゴボウ)は、ゴボウの一品種である。江戸時代元禄年間(1688年 - 1704年)に武蔵国豊島郡滝野川村(現在の東京都北区滝野川付近)で栽培と品種改良が行われ、その名の由来となった〔『江戸東京野菜 図鑑篇』、70-71頁。〕〔『江戸東京野菜 物語篇』、13-16頁。〕〔『江戸・東京ゆかりの野菜と花』、94-96頁。〕。味と品質の良さで人気があり、日本国内の各地に広まってさまざまな品種が生み出された〔〔佐藤、38-39頁。〕。この品種は東京特産の伝統野菜として、江戸東京野菜に認定されている〔佐藤、4-6頁。〕。
== 歴史 ==
ゴボウはキク科ゴボウ属の多年草で、学名を''Arctium lappa'' L. という〔『野菜園芸大百科 11』、241-242頁。〕。ゴボウ属は6種の存在が認められ、原産地はヨーロッパシベリアから中国北部とされる〔〔。日本には本来自生しない植物で、逸出以外での生育はない〔〔。アザミに似た花を咲かせ、開花後は綿毛状になって総苞内部が種子で膨れてくる〔船越、136-138頁。〕。
日本への伝来は古く中国から渡来したとされ、縄文時代前期の遺跡である鳥浜貝塚福井県若狭町)などから種子が出土している〔青葉、32-33頁。〕。ゴボウについては、平安時代の文献に栽培の記述がすでに見られる〔〔。中国ではゴボウの果実を「牛蒡子」(ごぼうし)や「悪実」(あくじつ)と称して消炎、解毒、解熱薬として使い、ヨーロッパでも根と果実を同様の用途で用いた〔〔〔野村 (2002)、64頁。〕。日本でも当初は薬用として用いられ、平安時代前期の「本草和名」に薬草として取り上げられた〔。
日本で食用として利用が始まったのは、平安時代とされる〔〔木村、116-117頁。〕。平安時代中期に編纂された「和名抄」には、野生の野菜として記述された〔。野菜としては日本以外での栽培はほとんど見られず、日本原産以外の植物を日本で作物化した唯一の例である〔『野菜園芸大百科 11』241頁では、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが1824年(文政7年)頃に日本からオランダへゴボウを伝えたが、食用としての品質がキクゴボウに劣るとして栽培が途絶えた旨の記述がある。ドイツフランスにもオランダから伝わって食用にされていたが、これらの国でもほとんど利用がない。台湾では1945年(昭和20年)頃まで日本から種子を輸入して栽培していたが、食用として利用したのは日本人だけであった。〕〔〔〔。
滝野川村でゴボウの栽培が始まったのは、江戸時代の元禄年間(1688年 - 1704年)である〔〔〔。滝野川の近辺は武蔵野台地の東端付近に位置し柔らかな黒土に深く覆われていて水はけもよいため、ゴボウやニンジンなどの栽培に適していた〔〔〔『江戸・東京農業名所めぐり』、106-108頁。〕〔仲宇佐、14-15頁。〕〔野村 (2002)、87頁。〕。滝野川村で鈴木源吾という人物がゴボウの品種改良と採種を行い、根の長さが80センチメートルから1メートル以上もある品種が創出された〔〔〔〔。
鈴木が改良したゴボウはその味と品質の良さが江戸の人々から歓迎され、人気品種となった〔〔〔〔『日本の伝統文化 和食 (3) 守ろう! ふるさとの味』、42-45頁。〕。このゴボウは産地の名をとって「滝野川ゴボウ」と呼ばれるようになった〔〔。鈴木は滝野川ゴボウの種子の販売も手がけ、やがて日本国内の各地に広まっていった〔〔〔〔。滝野川ゴボウは砂川ゴボウ(現在の東京都立川市砂川町付近が発祥とされる)とともに、江戸のゴボウの代表的品種になった〔〔『江戸・東京農業名所めぐり』、178-179頁。〕。
滝野川ゴボウをもとにさらに品種の改良が行われてさまざまな品種が生み出され、日本国内で栽培されるゴボウの9割以上がこの品種に連なっているといわれる〔〔〔〔『野菜園芸大百科 11』、247-249頁。〕。明治時代から第二次世界大戦前後まで、滝野川ゴボウは代表的品種として日本各地で広く栽培された〔『野菜園芸大百科 11』、242-243頁。〕。1921年(大正10年)の記録によれば、滝野川村でのゴボウ作付面積は青果用2.8ヘクタール、採種用1.1ヘクタールであった〔。昭和初期までは盛んに栽培されていたが、軍事関連施設の進出に伴って急速に進んだ都市化によって滝野川近辺でのゴボウ栽培は第二次世界大戦後に途絶した〔〔。東京都内での栽培は、東村山市、清瀬市、東久留米市、西東京市、立川市などの多摩地域に中心を移した〔成瀬・堀、110-111頁。〕。日本各地における滝野川ゴボウ自体の栽培も、第二次世界大戦後に登場した新品種の普及に押されてやや減少を見た〔。
滝野川ゴボウが再び地元に登場したのは、1996年(平成8年)のことであった〔。北区立滝野川西区民センター(北区滝野川6丁目21-2)の開設時に、地元の住民が地域の特色ある活動をしたいと提案した〔。そこで取り上げられたのがかつての特産野菜、滝野川ニンジンとゴボウの復活であった〔。北区は自然休暇村協定を締結している群馬県甘楽郡甘楽町の有機農業研究会グループに、滝野川ニンジンとゴボウに近い種類の品種の栽培を依頼した〔。収穫された野菜は、滝野川西区民センター2階(キャロット広場)で野菜料理の試食会や、区民への野菜販売も行っている〔。
1998年(平成10年)には、北区立滝野川紅葉中学校でも地元の伝統野菜である滝野川ゴボウの栽培を通して子供たちに郷土への思いを育てるという目的で、ボランティアとともに滝野川ゴボウの復活と栽培に取り組むことになった〔北区立滝野川紅葉中学校は、北区立滝野川中学校と北区立紅葉中学校が2009年(平成21年)に合併して開校した。当初は旧滝野川中学校の校舎を使用し、2013年(平成25年)に旧紅葉中学校跡地に新校舎を建設し移転した。滝野川ゴボウの復活栽培は旧紅葉中学校時代に始まったものである。本項では出典(『日本の伝統文化 和食 (3) 守ろう! ふるさとの味』42-45頁)に従って「滝野川紅葉中学校」名で記述する。〕〔〔。
栽培に中心となって取り組むのは生徒会の役員有志で、種子は普段市場に出回らないものを特別に取り寄せている〔〔。収穫の時期には、生徒会役員の他に学校主事の職員や給食委員会のメンバーも「助っ人」として加わる〔〔。1998年(平成10年)以来、滝野川ゴボウの栽培は代々の生徒会役員たちが引き継ぎ、2014年(平成26年)10月の収穫では合計で16.3キログラムの成果があった〔。収穫したゴボウは、炊き込みご飯などの材料として全校生徒400人分の給食に使用されている〔〔。
2011年(平成23年)にJA東京中央会は「江戸東京野菜」を商標登録し、滝野川ゴボウを含む34種類の野菜を認証した〔〔〔。JA東京グループは滝野川西区民センターに、「滝野川ニンジンとゴボウ」の屋外説明板を設置している〔JA東京グループは農業協同組合法施行50周年記念事業として、1997年(平成9年)から東京都神社庁などの協力のもとに「江戸・東京の農業屋外説明板」を各農産物にゆかりのある神社などに合計50枚設置した。2002年(平成14年)発行の『江戸・東京農業名所めぐり』は、これらの屋外説明板と既存の農業関連記念碑などを通して江戸から東京にかけての農業の歴史を解説する教材となっている。〕〔。なお、北区滝野川1丁目37番地先の坂道は「牛蒡坂」(ごぼうざか)と名付けられている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「滝野川ゴボウ」の詳細全文を読む




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