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漆畑 勝久(うるしばた かつひさ、1939年10月12日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、86ページ〕出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 == 来歴・人物 == 清水東高校では、1957年の夏の甲子園に四番打者、遊撃手として出場〔。2回戦(初戦)で、この大会準優勝の法政二高に敗退。1年後輩のチームメートに鈴木悳夫(東映)捕手がいた。 1958年に明治大学へ進学し、東京六大学リーグでは、後藤晃吾(八幡製鐵)、八木孝両投手を擁し、1961年春季リーグで優勝。同年の全日本大学野球選手権大会に出場するが、準決勝でエース宮田征典を擁する日大に敗れた。大型遊撃手としてプロの注目を集める〔。東京六大学リーグ通算89試合出場、293打数65安打、打率.222、3本塁打、42打点。ベストナイン1回。 1962年に広島カープへ入団〔。1年目は古葉竹識の存在もありレギュラーには定着できずにいた〔。徐々に出場機会も増え、レギュラーの兆しが見えてきた3年目の1964年に悲劇が襲う。ある試合で判定に怒った古葉がバットを投げ捨て、ボールボーイの少年がバットを拾おうとして近づいた時、ネクストバッターズサークルでスイングしていた漆畑のバットがボールボーイの頭に直撃し、少年は頭部陥没骨折の重傷となった(この事件以降ボールボーイにはヘルメット着用が義務付けられたと言われている)〔。幸い偶発的な事故だったため、刑事責任は追求されなかったが、漆畑は打撃不振となり、1965年は遊撃手のレギュラーとして101試合に出場も、打率は.230と振るわなかった〔。翌年には今津光男に遊撃手の定位置を譲るが、その後も二塁手、三塁手、遊撃手をこなすユーティリティプレイヤーとして活躍した。 1969年に引退し、マネージャーを1年、スカウトを4年務めて1974年に帰郷〔。兄が経営する弁当屋の役員として約20年間営業として携わり、その後、友人に誘われてシール印刷会社の専務に就任した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「漆畑勝久」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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