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隷書体(れいしょたい)は、漢字の書体の一つ。八分隷・八分・分書とも呼ばれる。古文に対して今文と呼ばれる。画像は『西嶽華山廟碑』(拓本、部分)。 == 概要 == 程邈という下級役人が罪を得て獄中にあったとき、隷書を発明しこれを献上することで始皇帝に許されたという伝承があるが、これは俗説に過ぎない。戦国時代頃から日常に通用されていた筆記体が、秦代になって業務効率を上げるために公文書でも用いられるようになったものが、隷書だと考えられている。紀元前3世紀後半の「睡虎地秦簡」などに見られる、篆書を簡略化した過渡的な書風を「秦隷」と呼ぶ。 前漢前期には篆書から隷書への移行が進み、秦隷と平行して、草書のもととなる早書きの「草隷」・秦隷の要素を残した波磔の小さい「古隷」・波磔を強調した装飾的な「八分」など、多様な書風が展開されていたことが、「馬王堆帛書」「銀雀山竹簡」「鳳凰山木牘」などの帛書や簡牘類によって確められる。また、前漢中後期を中心とする資料「居延漢簡」では、これらの書風がすでに様式として確立されている姿を見ることができる。 新を経て後漢に入ると、筆記体としての隷書はさらに発展し、草隷より進んだ速写体である「章草」(「武威旱灘坡医牘」)や、現在の行書ないし楷書のもととなる書風の萌芽(「永寿二年三月瓶」)をも見ることができる。そして、隷書が盛んに通行したこの時代、安定した政権のもとで儒教の形式化が進むにつれ、隷書を用いて石に半永続的な記録を刻むことが流行した。それら後漢の刻石資料に見られる書風は、おおむね桓帝または霊帝の前後で二分することができ、その前半期には古隷が多く、後半期には八分が多い。これらはいずれも書道における隷書体の範を示すものとして、後世から最高の評価を与えられている。 漢王朝の衰退に伴って、書体としての隷書の知識や技法は失われていった。紙の発明と普及が、筆記の方法や形態に何らかの影響を及ぼしたことも考えられる。いずれにせよ、その後隷書が広く用いられることはなく、研究や表現の一形式として試みられるに留まっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「隷書体」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Clerical script 」があります。 スポンサード リンク
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