|
【名詞】 1. comedian 2. comic dialogue =========================== ・ 漫才 : [まんざい] 【名詞】 1. comedian 2. comic dialogue ・ 才 : [さい] 【名詞】 1. ability 2. gift 3. talent 4. aptitude 5. genius
漫才(まんざい)は、古来の萬歳を元にし愛知県の尾張万歳、三河万歳の影響を受け、日本の関西地方で独自に発達したとされる、主に2人組で披露される演芸・話芸。2人の会話の滑稽な掛け合いの妙などで笑いを提供する。大正末期、映画の弁士によって始められた漫談にちなみ、1933年(昭和8年)頃に吉本興業宣伝部によって漫才と名付けられた。漫才を行う者を「漫才師」と呼ぶ。関西圏の漫才を特に上方漫才(かみがたまんざい)という。 == 歴史 == 漫才の発祥と言われる萬歳(まんざい)は、平安時代から始まった芸能で、新年を言祝ぐ(ことほぐ)歌舞である。2人一組で家々を訪れ、新年を祝う口上を述べた後に、1人片方が打つ鼓に合わせてもう1人が舞う。江戸時代には、全国各地でその地名を冠した尾張万歳、三河万歳、その後、大和万歳などが興り、歌舞のみでなく言葉の掛け合い噺や謎かけ問答を芸に加えて滑稽味を増し発展していった。しかし、第二次世界大戦後にはほとんど行われなくなっていき今では保存会などの復興・継承がされている。 明治時代から行われた大阪の寄席演芸である万才(まんざい)は、この萬歳のうち三曲萬歳をベースにしたとされる。三曲萬歳は胡弓・鼓・三味線による賑やかな萬歳で、初期の万才もこれに倣って楽器伴奏を伴っていた。初期の万才の芸人には、万才という分野を切り開いたパイオニアである玉子屋円辰、市川順若や、砂川捨丸・中村春代のコンビなどがある。現在の上方漫才は、玉子屋円辰や砂川捨丸ら、関西の上方漫才創始期の芸人が、当時万歳の本場であった尾張の万歳師からこの音曲万歳を習ったのが始まりであり、尾張万歳から派生したものとされている。また彼らの門流が活躍、秋田實の論文によれば、玉子屋円辰が曽我物語を歌った時の、代役の太鼓敲きとのやり取りがボケとツッコミの始まりで、ここから今日の近代漫才が始まった。ただし当時の寄席演芸は落語が中心であり、万才は添え物的な立場に置かれていた。 その後、俄や、俄から転化し2人で落語を演じる形式の軽口噺、浪曲の要素が混ざり合い、大正末期には吉本興業の芸人である横山エンタツ・花菱アチャコのコンビが画期的な「しゃべくり漫才」で絶大な人気を博した。彼らの漫才は従来の和服、太鼓、唄の萬歳とは全く異なりスーツ姿で会話のみのアメリカの話芸ダブルアクトに影響を受けている。このスタイルが現在の漫才にも踏襲され、日本古来の太鼓で唄う萬歳がほぼ廃れている為、ビートたけしは漫才の直接的なルーツはアメリカにあるとしている。 昭和初期までは基本的に「萬才」「萬歳」の表記が使われることが多かったが、一般公募で呼び方を募集「滑稽コント」「ユーモア万歳」「モダン万歳」「ニコニコ問答」などの公募があったが橋本鐵彦(後の同社社長)が納得するのがなく自ら「漫才」と漢字表記だけを変えた〔『わらわし隊の記録』(早坂隆著、中公文庫、2010年(平成22年))pp.90 - 91〕。1933年(昭和8年)1月に吉本興業内に宣伝部が創設され、この宣伝部が発行した「吉本演藝通信」の中で「漫才」と表記を改称することが宣言されたことから、現在では当時同社の宣伝部門を統括していた橋本を「漫才」の名付け親とするのが通説となっている。しかしこの前年の1932年(昭和7年)3月に吉本興業が「吉本興業合名会社」として改組された際に、営業品目の一つとして「漫才」の表記が既に使われていること(なお、橋本の吉本興業入社は合名会社への改組後である)などから、「漫才」の名付け親は橋本ではなく、当時同社の総支配人だった林正之助であるとする説もある。〔『上方芸能・笑いの放送史』(澤田隆治著、日本放送出版協会、1994年(平成6年))pp.30 - 33〕当初のこの表記には花月亭九里丸など芸人の間でも批判があった〔。林は橋本が勇退してからは「わしが考案した」「わしたが橋本に提案した」など自慢していたという。長らく吉本新喜劇・文芸部所属でエンタツ・アチャコと接してきた竹本浩三は林の名付け親説を否定している。 エンタツ・アチャコ以降、漫才は急速に普及して他のスター漫才師を生みだし、秋田實などの漫才作家も活躍した。東京ではエンタツ・アチャコと懇意にしていた柳家金語楼が触発されて、一門の梧楼と緑朗に高座で掛け合いを演じさせ、これが今日の東京漫才の祖とされるリーガル千太・万吉に繋がった。一方、砂川捨丸・中村春代や東京の松鶴家千代若・千代菊など、お囃子を取り入れた古典的なスタイルを崩さなかった漫才師もいた。 戦後、漫才師たちは、相方の戦死・病死・消息不明などに見舞われる。吉本興業は映画会社へ転身を図り、ほとんどの専属芸人を解雇した。また、同社と専属契約していなかった漫才師たちは大阪に結集し、仕事の受注やマネージメントをする団之助芸能社を立ち上げた。松鶴家団之助が交通の便などがよかったために西成区山王で芸人を集めたため、山王は『芸人横丁』と呼ばれ地元の人に親しまれた。その後、交通機関の発達で山王を離れての活動が容易になり、多くの芸人は千土地興行や新生プロダクション、上方芸能(いずれも後の松竹芸能)、そして演芸興行を再開した吉本興業と契約するようになった。 1950 - 1960年代が漫才の全盛期で、上方では中田ダイマル・ラケット、ミヤコ蝶々・南都雄二、かしまし娘、夢路いとし・喜味こいし、海原お浜・小浜、暁伸・ミスハワイ、タイヘイトリオ、鳳啓助・京唄子、人生幸朗・生恵幸子、漫画トリオなどが、東京では前述の千太・万吉のほか、内海突破・並木一路、コロムビア・トップ・ライト、大空ヒット・三空ますみ、宮田洋容・布地由起江、都上英二・東喜美江、内海桂子・好江、獅子てんや・瀬戸わんや、Wけんじなどがラジオ・テレビで活躍した。 1970年代においても、上方では中田カウス・ボタンやコメディNo.1、レツゴー三匹などが台頭して新たな笑いを築いていったが、東京はコントに笑いの主流が移ってしまい停滞気味になっていった。 1980年には、関西テレビの番組『花王名人劇場』や、フジテレビの番組『THE MANZAI』から漫才ブームが起こり、横山やすし・西川きよし、B&B、今いくよ・くるよ、ザ・ぼんち、星セント・ルイス、ツービート、太平サブロー・シロー、島田紳助・松本竜介、西川のりお・上方よしお、オール阪神・巨人などの中堅や若手漫才師が人気を集めた。彼らの中には現在でも芸能文化活動の第一線で活躍している者が多い。 漫才は寄席で行われる演芸として発達したが、マスメディアとの親和性にも優れており、ラジオ番組やテレビ番組でも多く披露されていった。 アメリカ、ドイツ、韓国、中国などの国々にも似たようなものがあって、日本の漫才のように空気を読んだノリツッコミやドツくのようなパフォーマンスも見られる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「漫才」の詳細全文を読む
=========================== 「 漫才 」を含む部分一致用語の検索リンク( 3 件 ) 掛け合い漫才 漫才 漫才師 スポンサード リンク
|