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潮丸 元康(うしおまる もとやす、1978年5月11日 - )は、静岡市葵区出身で東関部屋所属の元大相撲力士。本名は佐野 元泰(さの もとやす)、愛称は「ウッシー」。現役時は身長177cm、体重169kg。最高位は西前頭10枚目(2002年11月場所)。現在は年寄・東関として、東関部屋の師匠を務める。 現役時代は童顔と相撲人形のような体つきでファンの人気を集めた。その丸々としたあんこ型の体型を生かした突き押し相撲を得意としたほか、差し身が良く、もろ差しや右差しの体勢からの寄りを見せる事も多かった。 明るい性格でカラオケを趣味としている。血液型はB型。 == 来歴 == 一人っ子として生まれる。小学生時代にはソフトボールを経験した。中学では野球部に所属し、一塁手と4番打者を務めた。生徒会長も務めた。身体が大きかったため、特注のユニフォームを製造する会社の社長の紹介により、東関親方(元関脇・高見山)からスカウトされた。相撲は未経験だったものの、母親を楽にしてあげたいとの気持ちから入門する決意を固めた。 中学卒業後に東関部屋に入門し、1994年3月場所において初土俵を踏んだ。2002年1月場所で新十両へ昇進し、その1月場所では11勝4敗の好成績を挙げた。同年7月場所では13勝2敗の成績を挙げて初の十両優勝を果たし、翌9月場所には新入幕を果たした。新入幕の場所こそ勝ち越したものの、その後は左膝・左脚の怪我に悩まされて幕内と十両の往復に終始した。2005年には幕下に2度陥落したが、いずれもすぐに十両に復帰している。 2007年のハワイ巡業の際に、ハワイの地元紙「ホノルルアドバタイザー」にて、師匠の東関親方から東関親方の後継者に指名されていた〔Maui-born Kuhaulua able to bridge generation gap ホノルルアドバタイザー 2007年6月7日付〕。同年の5月には結婚している。 師匠である東関親方の定年退職を目前に控えた2009年5月場所を6勝9敗の成績で終えた後、同場所の千秋楽である同年5月24日に引退を表明し、北の湖が所有する名跡を借りて年寄・小野川を襲名した〔元幕内潮丸が引退=東関部屋継承へ-大相撲 時事通信 2009年5月24日 〕。同年6月16日に東関親方が定年退職したことに伴い、年寄・東関に名跡変更し、師匠である12代東関と同じ「東関大五郎」の年寄名を名乗り、13代東関を襲名して東関部屋を継承した。〔 2010年1月31日には「潮丸引退東関襲名披露大相撲」(断髪式)が催された。引退相撲では同部屋の現役力士である高見盛との割が組まれ、この「最後の一番」を勝利で飾った。止め鋏は先代の東関親方が入れた。 2012年の役員改選と同時に行われた新たな職務分掌では、平年寄としては異例となる勝負審判に就任した。この役員改選前の地位は平年寄で、勝負審判は現役時代の最高位が前頭2枚目以上でかつ委員の親方が原則として務めることとなっていたが、役員改選後も昇格はせずにそのまま平年寄に留め置かれた(2013年2月に主任へ昇格)。 2012年12月25日に胸椎後縦靱帯骨化症で入院して手術を受けた。手術を前に、病気が判明した後の2012年11月場所より審判の職務を休んでおり、代わりに一門の千田川親方(元小結・闘牙)が代理を務めている。手術後も1か月近く入院していたが、2013年1月場所中に退院し、同場所千秋楽に現役を引退した高見盛の引退記者会見にも同席した。同年の春巡業において職務へ復帰している。 師匠としては、弟子たちに毎日ノートを提出させ、その日の相撲や稽古の反省、その他思うことを報告させることで弟子との密なコミュニケーションを図っている。また、支持者のふりをして近づく反社会的勢力を排除するため、金銭の発生する会合に弟子が出るときは必ず報告を義務付けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「潮丸元康」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ushiomaru Motoyasu 」があります。 スポンサード リンク
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