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市川 壽三郎(-寿三郎、いちかわ じゅさぶろう、1905年3月1日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。初期には澤村 勇(さわむら いさむ)と名乗った。本名は古賀 辰雄(こが たつお)〔『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.131。〕。第二次世界大戦前に活躍した剣戟俳優である〔。 == 人物・来歴 == 1905年(明治38年)3月1日、佐賀県に「古賀辰雄」として生まれる〔。 澤村宗之助門下に入門し〔、澤村 勇を名乗る。1926年(大正15年)、東亜キネマ等持院撮影所に入社〔、同年、長尾史録監督の『熊野路』に出演する〔#外部リンク欄、「市川寿三郎」リンク先、日本映画データベース、2009年10月27日閲覧。〕。翌1927年(昭和2年)、後藤秋声監督、雲井竜之介主演の『砂絵呪縛』に森尾重四郎役で出演し、同作を契機に主役級俳優に昇格する〔。1928年(昭和3年)、石田民三監督の『侠恋巴草紙』、『雁帰来』で主役を張る〔〔。同年後半から翌1929年(昭和4年)にかけて、市川右太衛門プロダクションに移籍し、市川右太衛門の脇を務めた〔。 1930年(昭和5年)には東亜キネマ京都撮影所に復帰する〔〔が、羅門光三郎や青柳竜太郎、尾上菊太郎の脇役となってしまう〔。翌1931年(昭和6年)、嵐寛寿郎の第二次嵐寛寿郎プロダクションに参加〔、嵐の脇を務めた〔。 1935年(昭和10年)、極東映画(のちの極東キネマ)の設立に参加、同社では7年ぶりに主役を張った〔。1941年(昭和6年)の合併による同社の消滅まで在籍した〔。極東キネマ消滅後は、同年、日活京都撮影所で丸根賛太郎監督、寛寿郎主演による日活の正月映画『決戦奇兵隊』に出演〔、それ以降の記録がない〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「市川寿三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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