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瀧山(滝山:たきやま、文化2年(1805年) - 明治9年(1876年)1月14日)は、江戸幕府13代将軍徳川家定・14代家茂時代の将軍付御年寄である。御鉄砲百人組・大岡義方の長女。名は多喜とも。同じころに大奥勤めをしていたませは姪にあたる。 == 生涯 == 文政元年(1818年)、14歳で大奥に上がる。その後、才覚が認められて家祥付御年寄を経て将軍付御年寄に任じられた。14代将軍継嗣問題の際には南紀派(慶福派)に属しており、上臈御年寄・歌橋や13代家定の母・本寿院らと共に一橋派と対立、家定御台所・篤姫周辺らが推す慶喜の将軍就任に反対した〔水戸の徳川斉昭が兄嫁の峰姫(11代将軍・徳川家斉の娘)付きの上臈・唐橋に手を出すなどのいざこざを起こしたこともあり、大奥は水戸嫌いとなっていた。大奥居住者のなかでも本寿院は「慶喜殿が将軍になるなら、わらわは死を選ぶ」と言い放ち、瀧山もこれに賛同したという。大奥にも少数ではあるが、継嗣問題のパイプ役として送り込まれた御台所付きの幾島ら一橋派の者もいた。ただし、篤姫自身は養父の近衛忠煕に宮中で慶喜を継嗣とする工作を行わないよう書状を出している。これについて幾島は「歌橋らの吹き込みによるもの」と弁明している。〕。家定は次期将軍に慶福(後の家茂)に決定させ、安政5年7月6日(1858年8月14日)に死去した。 10月24日(11月29日)に家茂とその実母・実成院が本丸大奥に入る。実成院はかなりの派手好きで毎晩女中らと酒を飲み騒いでいた。瀧山は実成院付の御年寄・藤野に「実成院様には、毎晩の御酒を控えるように」と注意を促したが、実成院はこれを聞き入れることなく騒いでいた。瀧山は実成院に直接「大奥の風紀が乱れるため、毎晩の御酒を控えるように」と厳重注意をした。実成院はこれが気に入らず瀧山の注意を聞き入れることはなく、毎晩飲みながら騒いだという。 慶応2年(1866年)に家茂が亡くなった際、御年寄職を辞したと考えられる〔これまでは、奥女中らにその功労に合わせて拝領物を与え、大奥の最後の幕引きをしたのは瀧山であると言われていた。しかし、「七宝御右筆間御日記」に慶応3年(1867年)正月より瀧山の名前が登場しなくなったことや、慶喜の正室・美賀子が慶応3年に「下宿(永の暇)」した瀧山に対して白銀30枚を送ったとされていることから、実際には江戸城開城以前に大奥を退いたと思われる。〕。 江戸城開城後は自分に仕えていた局の生家を頼り、現在の埼玉県川口市で過ごす。晩年夫婦養子を迎えて「瀧山」の苗字を名乗らせ、瀧山家を興した。明治9年(1876年)、72歳で没。 法名は瀧音院殿響誉松月祐山法尼。墓所は川口市の錫杖寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「瀧山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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