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瀬川 路三郎(せがわ みちさぶろう、1894年2月12日 - 1968年2月23日〔『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.149。〕〔『CD-人物レファレンス事典 日本編』、「瀬川路三郎」の項、日外アソシエーツ、2004年。〕)は、日本の俳優である。本名は岡田 茂雄(おかだ しげお)である〔〔〔#外部リンク、「瀬川路三郎」、キネマ旬報、2009年11月10日閲覧。〕。瀬川 路雄(せがわ みちお)とも名乗った〔。 == 人物・来歴 == 1894年(明治27年)2月12日、東京府東京市日本橋区浜町〔〔(現在の東京都中央区日本橋浜町)に「岡田茂雄」として生まれる〔。 旧制・深川尋常小学校(現在の江東区立深川小学校)を卒業〔、満16歳となる1910年(明治43年)、歌舞伎狂言の作者・四代目瀬川如犀に師事した〔。 京都に移り、満30歳になる1924年(大正13年)、マキノ映画製作所等持院撮影所に入社〔、沼田紅緑監督の『春は花遠山桜』、二川文太郎監督の『情熱の火』に出演して映画界にデビューした〔〔#外部リンク、「瀬川路三郎」、日本映画データベース、2009年11月10日閲覧。〕。同年、マキノが合併して東亜キネマになったのちに帝国キネマ演芸に移籍し〔、1925年(大正14年)、森本登良男監督の『荒木又右衛門』等に出演したが、同年、悪麗之助監督の『長脇差』を最後に東亜キネマに戻る〔〔。戻った第1作は同じく帝国キネマから移籍した悪麗之助監督の『追はれ行く人』であった〔。 1928年(昭和3年)、片岡千恵蔵がマキノ・プロダクションを独立し、片岡千恵蔵プロダクションを設立、これに参加し〔、伊丹万作監督の『続万花地獄 第一篇』に出演した〔。1937年(昭和12年)の同社の解散まで、千恵蔵映画を支えた。同年、日活京都撮影所に入社、同時期にマキノトーキー製作所を解散して入社してきたマキノ正博(のちのマキノ雅弘)の入社第1作、阪東妻三郎主演の『恋山彦 風雲の巻』、『恋山彦 怒濤の巻』、『血煙高田の馬場』と立て続けに出演した〔。1940年(昭和15年)、マキノ正博監督の『織田信長』を最後に東宝映画京都撮影所に移籍した〔。第二次世界大戦中も、山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)、黒澤明監督のデビュー作『姿三四郎』に出演している〔。 戦後は新東宝に参加し、1952年(昭和27年)、中川信夫監督の『右門捕物帖 緋鹿の子異変』を皮切りに出演しているが〔、翌1953年(昭和28年)、池田富保監督の『鞍馬天狗と勝海舟』を最後に大映京都撮影所に移籍した〔。1955年(昭和30年)から1957年(昭和32年)にかけては日活、それ以降は、東映京都撮影所作品に出演した〔。 1968年(昭和43年)2月23日、腎不全のため死去した〔〔。満74歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「瀬川路三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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