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瀬戸線(せとせん)は日本国有鉄道(国鉄)が建設を計画していた鉄道路線である。瀬戸市駅から枇杷島駅・稲沢駅を結ぶ計画であった。当初の計画とは大きく異なる形ではあるがほとんどの区間が開業し、城北線および愛知環状鉄道線として営業している。この項目では主に建設計画について述べる。現在の状況については詳しくはそれぞれの路線の記事を参照のこと。 == 前史 == 名古屋市内の中央本線ルート案は主に「城東線(現在ルート)」と「城北線(名古屋市内北部を迂回し勝川に至るルート)」の2案が比較検討され、最終的には地元の要望や東海道本線との接続の関係から「城東線」ルートで建設された。ところが、名古屋市域の拡大に伴う東部丘陵部の開発が進むにつれて、田園地帯であった中央本線沿線まで市街地が進出し、鉄道線による市街地分断が次第に問題視されるようになってきた〔。名古屋市では1910年代頃より中央本線のルート変更が議論されるようになり、1913年(大正2年)3月19日には名古屋市区調査会がかつての「城北線」ルートに似た案を、1915年(大正4年)11月には沿線地主らにより結成された鉄道路線変更道路開設土地整理組合が千種駅以南を更に東へ移設する案を企図している〔。 名古屋市議会では初め江口理三郎(市議・尾張電気軌道社長)による後押しもあって東移転ルートを主に検討していたが、鉄道院の反応が芳しくなかったこともあり、1919年(大正8年)の立案では城北線ルートに変更されている。この時点では矢田川・庄内川内縁(名古屋市内)を通る計画となっていたが、翌1920年(大正9年)になると外縁の勝川駅または高蔵寺駅と稲沢駅とを結ぶ案が有力となっていた〔。 一方、鉄道院(1920年からは鉄道省)は名古屋市自らが城東線を強く要望したこと、鉄道用地の寄付を条件に誘致したにもかかわらず履行しなかったことを理由に、一貫して市側の要望を受け入れていなかった〔。だが、「勝川 - 稲沢(枇杷島)」案については同時期に名古屋駅改良と稲沢への操車場移転計画が進んでいた事もあって意欲を示した。城北線ルートに変更する意義として、鉄道省では名古屋市内をスルーして貨物列車を稲沢に運べること、中央本線を名古屋駅北方からの進入にすることで貨客ともに関西本線へスルー運転できることに着目した〔。 しかし、昭和不況による財政的圧迫から鉄道省は設備投資の縮小を余儀なくされた。より優先度の高かった名古屋駅改良計画すら予定通りに進まない状況であり、中央本線移設計画は事実上棚上げとなった〔。結局、当初の目的であった「市街地分断の解消」は鉄道の堀割化、道路の立体化によって対応することになり〔、名古屋駅 - 大曽根駅間が全て連続立体交差化されたのは1964年(昭和39年)のことであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「瀬戸線」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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