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火薬警鐘(かやくけいしょう、)は、1774年9月1日に、イギリス領マサチューセッツ湾直轄植民地総督トマス・ゲイジの命により、イギリス兵がボストンに近い火薬庫から火薬を除去したことに対する大衆の反応である。血が流されたという噂の中で、イギリス兵の動きに反応して、警告が遠くコネチカット植民地まで田園部を拡がり、戦争が近いことを恐れたアメリカの愛国者達が行動を起こした。 これは後に誤った警告だと分かったが、この火薬警鐘によって政治や軍事の指導者達が先を見据えて慎重にことを運ぶようになり、実質的に7ヶ月後のレキシントン・コンコードの戦いにとっては「舞台稽古」の役目を果たした。さらに武器、火薬など軍需物資の統制を巡って、イギリス軍は武器庫を直接の支配下に置こうとし、アメリカ愛国者側は自分達が使うためにそれらを確保して置こうとしたので、双方の動きが紛争の火種になった。 == 背景 == 1772年、イギリス領13植民地の多くの人々は、ガスペー事件などイギリスの不人気な行動に反応して、通信委員会を形成するための選挙を行った。このことで植民地間の正式な対話が生まれ、他所で起こっている出来事にも気付くようになり、行動の協調が取れるようになった。例えば、茶法や耐え難き諸法などイギリスから植民地へ押しつける不人気な法制の執行に対して植民地の反応を調整する役割を果たしたことだった。マサチューセッツ湾植民地の植民地人はイギリス正規軍の行動に対して軍事的に調和の取れた行動を起こすまでに至ってはいなかったが、「我々の生命や財産を賭けて」ボストンを支持するという声明が造られた。この頃ボストン港は1774年のボストン港湾法の下で閉鎖されていた〔Tagney, pp. 68-75 (emphasis in original)〕。 トマス・ゲイジ将軍は1774年5月にマサチューセッツ湾植民地の軍政府長官になっており、ボストン茶会事件に対応してイギリスの議会が法制化し、大変不人気だった耐え難き諸法の執行に当たっていた。戦争の勃発を避け、愛国者(ホイッグ)多数派とロイヤリスト(トーリー)少数派の間に平和を保つために、ニューイングランドにある倉庫や武器庫から密かに軍需物資を移動させておくのが最善の道だと考えた〔Frothingham, p. 13〕〔Fischer, p. 43〕。ゲイジはこの作戦が漏れれば部下が武器庫に達する前に愛国者の同調者達が確保あるいは隠匿してしまう結果になることを恐れたので、この任務を秘密にして置くことは最優先事項だった〔。 植民地の中にはイギリス軍が物資を蓄えていた場所が幾つかあった。これらのうち小さな守備隊が守る砦となっているものもあったが、他のものは単に鍵が掛けられた火薬庫に過ぎなかった。ここに置かれている火薬の大半は植民地知事の統制下にあったが、個々の町の資産である場合もあった。ボストンの近郷では当時チャールズタウンの一部であり、現在ではサマービルのパウダーハウス・スクェアとなっている所に鍵付き倉庫があり、植民地民兵隊の指導者かつ知事に指名された者であるウィリアム・ブラットルが統制していた。ブラットルはロイヤリストや愛国者のどちらかを明白に支持しているというわけでは無く、8月27日付けのゲイジ総督宛の手紙で、町の者が自分達の火薬を取り去ってしまったので、植民地の(すなわち国王の)火薬は倉庫に残っている分だけだと伝えた〔Richmond, p. 5〕。ゲイジは安全確保のために残っている火薬をボストンに移しておくことに決めた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「火薬警鐘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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