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烏累若鞮単于 : ミニ英和和英辞書
烏累若鞮単于[からす]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [からす]
 【名詞】 1. crow 2. raven 
: [ふち, るい, かさね]
 【名詞】 1. trouble 2. evil influence 3. implication 4. involvement
: [ひとえ, たん]
 【名詞】 1. one layer 2. single 

烏累若鞮単于 ( リダイレクト:烏累若テイ単于 ) : ウィキペディア日本語版
烏累若テイ単于[ひとえ, たん]

烏累若鞮単于呉音:うるにゃくたいぜんう、漢音:おりゅうじゃくていせんう、ピンイン:、? - 18年)は、中国時代の匈奴単于呼韓邪単于と第2閼氏(大閼氏)との子で、烏珠留若鞮単于の異母弟。烏累若鞮〔“若鞮”とは匈奴の言葉で“”という意味である。当時、漢の歴代皇帝が帝号に“孝”をつけていたため、匈奴は復株累若鞮単于以降、それを真似るようになった。<『漢書』匈奴伝下、『後漢書』南匈奴列伝>〕単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は(かん)という。王莽によって孝単于にも立てられた。
== 生涯 ==
呼韓邪単于と第2閼氏(大閼氏)との間に生まれる。
綏和元年(前8年)、兄の烏珠留若鞮単于が即位すると、咸は左犁汗王に任ぜられた。
始建国元年(9年)、中国で王莽が帝位を簒奪し、を滅ぼしてを建国した。王莽は五威将の王駿らを匈奴へ派遣し、烏珠留若鞮単于に新たな単于印を与えた。その帰り道、王駿らは左犁汗王咸の所領にさしかかったところで、多くの烏桓民がいるのを見かけたので、咸に「四条の制約〔元始2年(2年)、王莽によって投降・亡命者に関する四条の制約が決められた。その中に「烏桓人の投降者を受け入れてはならない」とある。〕に違反しているので速やかに還しなさい」と言った。咸は「単于に聞いてから還します」とし、烏珠留若鞮単于からは「塞内に従ってこれを還すべきか、塞外に従ってこれを還すべきか」と言ってきた。そこで、詔が塞外に従ってこれを還すべきとしたので、咸は塞外に従ってこれを還した。
始建国3年(11年)、西域都護但欽は上書して「匈奴南将軍の右伊秩訾が人衆を率い、諸国を寇撃しようと企んでいる」と報告した。そこで王莽は匈奴で15人の単于を分立させようと考え、中郎将藺苞、副校尉の戴級に兵1万騎を率いさせ、多くの珍宝でもって雲中塞下に至り、呼韓邪単于の諸子を招き寄せた。やって来たのは右犁汗王の咸と、その子のの3人で、使者はとりあえず咸を拝して孝単于とし、安車鼓車各一、黄金千斤、雑繒千匹、戲戟十を賜い、助を拝して順単于とし、黄金五百斤を賜った。そして助と登を長安に連れ帰って侍子とした。この事を聞いた烏珠留若鞮単于はついに激怒し、左骨都侯右伊秩訾王呼盧訾左賢王の楽らに兵を率いさせ、雲中に侵入して大いに吏民を殺させた。ここにおいて、呼韓邪単于以来続いた中国との和平は決裂した。
後に助が病死したので、王莽は助に代わって登を順単于とした。
厭難将軍の陳欽、震狄将軍の王巡は雲中の葛邪塞に駐屯した。この頃、匈奴が何度か辺寇をなし、将率吏士を殺し、人民を略奪し、畜産を略奪していったので、陳欽らは捕虜を捕まえて験問したところ、誰もが孝単于咸の子である角が何度か寇をなしたと言った。そこで始建国4年(12年)、王莽は諸蛮夷と会し、咸の子の登を長安の市で斬った。
始建国5年(13年)、烏珠留若鞮単于が死去すると、匈奴は右骨都侯須卜当王昭君の娘である伊墨居次云の婿。〕を大臣に起用した。その妻である伊墨居次の云〔復株累若鞮単于王昭君の娘。〕は以前から中国と和親を欲しており、もともと咸とは親しかったので、孝単于の咸を立てて烏累若鞮単于とした。烏累若鞮単于は即位すると、烏珠留若鞮単于の子の蘇屠胡本を左賢王〔烏珠留若鞮単于の在時、左賢王が立て続けに死んだので、その号を不祥とし、左賢王を“護于”と改めた。護于の尊は最貴で単于に次ぐ地位とし、その長子にその位を授け、これ以後伝統にしようとした。しかし、咸はそれが気に入らず、伝統にしようとは思わなかったので、烏累若鞮単于として即位するなり、護于を左賢王に戻した。〕とし、弟の輿左谷蠡王とし、弟の屠耆閼氏の子である盧渾右賢王とした。伊墨居次の云と須卜当は烏累若鞮単于咸に和親を勧める。
天鳳元年(14年)、王莽は王歙王颯を匈奴へ派遣し、黄金衣被繒帛を賜い、侍子の登が健在であると嘘をつき、以前匈奴へ寝返った陳良終帯らの返還を求めた。烏累若鞮単于は陳良ら31名を捕えて、廚唯姑夕王の富ら40人に王歙・王颯を送らせた。さっそく王莽は焚如の刑を作り、陳良らを焼殺した。その後、烏累若鞮単于は子の登が王莽によって殺されていたことを知り、激怒して侵入略奪を絶えず行った。
天鳳2年(15年)5月、王莽はふたたび王歙に五威将の王咸伏黯丁業ら6人を率いさせ、右廚唯姑夕王を送らせ、侍子の登及び諸貴人従者の喪を奉じて塞下に至った。烏累若鞮単于は伊墨居次云と須卜当との子である大且渠須卜奢らに塞まで出迎えさせた。王歙らは匈奴の国号と単于号を改めるよう説得し、匈奴を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させ〔『漢書』王莽伝では「降奴服于」とある。〕、印綬を賜った。そして、骨都侯の須卜当を封じて後安公とし、須卜当の子の須卜奢を後安侯とした。烏累若鞮単于は王莽の金幣を貪る一方、寇盗も従来通り行った。
天鳳5年(18年)、烏累若鞮単于は即位5年で死去し、弟である左賢王の輿が立ち、呼都而尸道皋若鞮単于となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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