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木曜会(もくようかい)は、1927年(昭和2年)から1929年(昭和4年)にかけて存在した、大日本帝国陸軍の若手の中央幕僚による会合、小グループ。少壮の陸軍幕僚が内々に集まり、陸軍の装備や国防の指針など軍事にかかわるさまざまな問題を研究し、議論・検討することを目的とした少人数の集団、研究団体〔川田(2010)pp.4-7〕。構成員は18人前後で、永田鉄山らの二葉会にならって結成された〔川田(2010)pp.7-11〕。無名会(むめいかい)と称することもあった。 == 概要 == 木曜会は、1927年(昭和2年)11月ころ、参謀本部作戦課員の鈴木貞一と要塞課員の深山亀三郎が中心となり、鈴木・深山をはじめとする日本陸軍中央の少壮幕僚グループによって組織された〔〔小田部(2004)〕〔木曜会を組織した鈴木貞一は、「東洋のセシル・ローズ」を自認する帝国主義政治家の森恪やのちに「革新官僚」と呼ばれる官界勢力との結び付きを強めている。小田部(2004)〕。構成員は、総勢18名ほどであり、幹事役の鈴木(陸士22期卒業)のほか、石原莞爾(21期)、村上啓作(22期)、根本博(23期)、土橋勇逸・深山亀三郎(24期)ら陸軍士官学校21期から24期にかけての卒業生を中心としていた。しかし、陸士16期の永田鉄山や岡村寧次、17期の東条英機も会員として、この会に加わった〔。木曜会は、すでに発足していた永田ら当時の中堅幕僚を主なメンバーとする二葉会にならってつくられたものであり、永田・東条など構成員の一部は互いに重複している〔二葉会は、永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎ら陸士16期生による1921年(大正10年)10月のドイツでの「バーデン=バーデンの密約」に起源を発している。帰国後も考えを同じくする幕僚らの会合がつづき、1927年ころ、この同士的結合が「二葉会」と称された。川田(2010)pp.10-11〕。1929年(昭和4年)5月には二葉会と木曜会は合流して、一夕会が結成された〔。 会の名称は、木曜日に会合がもたれたことに由来する。会合は、1927年11月ころから1929年4月まで計12回ひらかれた〔川田(2010)pp.140-142〕。 1928年(昭和3年)1月19日にひらかれた第3回会合では、当時、陸軍大学校の教官であった石原莞爾が『我が国防方針』という題で話をしており、「日米が両横綱となり、末輩之に従ひ、航空機を以て勝敗を一挙に決するときが世界最後の戦争」と述べている〔加藤(2002)pp.237-241〕。石原はまた、日本から「一厘も金を出させない」という方針の下に戦争しなければならないと述べ、「全支那を根拠として遺憾なく之を利用せば、20年でも30年でも」戦争を続けられるという構想を語っている〔〔石原は陸大の『欧州古戦史講義』において、貧弱な日本が仮に百万規模の最新式軍隊を出征させ、なおかつ、膨大な軍需品を補給しなければならないとしたら日本の破産は必至であり、それゆえ、フランス革命後のナポレオン・ボナパルトが対英戦でみせたような、占領地の徴税・物資・兵器によって出征軍が自活し、中国の軍閥を掃蕩、土匪を一掃して治安を回復すれば、たちまち民衆の信頼を得て目的以上のことを達成できると説き、「戦争により戦争を養ふ」本旨を主張した。加藤(2002)p.239〕。この会には、永田鉄山、東条英機、鈴木貞一、根本博らが出席した〔。 同年の3月1日には、東京九段に所在する陸軍将校クラブ、偕行社において第5回の会合が開かれており、東条英機、鈴木貞一、根本博ら9名が参加した〔〔このときの参加者は、中佐の東条英機をのぞけば全員が少佐か大尉であり、陸軍省・参謀本部など陸軍中央の若手の幕僚であった。川田(2010)p.4〕。この会合では、「満蒙に完全な政治的勢力を確立する」という共同謀議がなされた(次節参照)〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「木曜会 (日本陸軍)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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