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焦 瑩(しょう えい)は中華民国の教育者・政治家・博物学者・生物学者。中国同盟会以来の革命派人士で、後に中国国民党(国民政府)に属した。字は斐瞻。 == 事跡 == 1906年(光緒32年)、保定高等農業学校を卒業する。その後、日本に留学し、東京高等師範学校で学ぶ。その後、帝国大学〔徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』によるが、具体的にどこの大学かは不明。『最新支那要人伝』には帝国大学進学につき記載がない。〕に進学した。留学中に中国同盟会に加入している。 1913年(民国2年)に帰国し、国立武昌高等師範学校で博物学を教えた。1916年(民国5年)、国立北京高等師範学校に転勤する。1920年(民国9年)、同校の校長に昇進した。1923年(民国12年)、京兆学務局局長となる。1926年(民国15年)、再び国立北京高等師範学校に戻り、また、私立燕京大学教授も兼ねた。 まもなく焦瑩は南に向かい、国民政府の北伐に参加した。広州や武漢で中国国民党の中央党政工作に従事している。1929年(民国18年)、私立中法大学教授となり、また北平市で私立成城中学の創設に携わった。1932年(民国21年)、国民政府鉄道部で職に就く。1936年(民国25年)、北平に赴いて、成城中学と燕京大学で学務・教務に従事した〔『最新支那要人伝』によると、他に天津特別市教育局局長に就任したとあるが、劉寿林ほか編『民国職官年表』では確認できない。〕。 日中戦争(抗日戦争)勃発後、焦瑩は北平に留まっている。1940年(民国29年)3月、南京国民政府(汪兆銘政権)が成立すると、焦は考選委員会委員長に任命されたが、実際には就任しなかった〔劉寿林ほか編『民国職官年表』、1051・1422頁。副委員長の呉凱声が実務を担当したと考えられる。〕。 1945年(民国34年)春、北平にて病没。享年63。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「焦瑩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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