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昭平親王(あきひらしんのう)は、平安時代中期の皇族、公卿。名は照平とも表記する。村上天皇の第五皇子で、母は更衣藤原正妃(まさひめ、左大臣藤原在衡の娘)。娘は藤原道兼の養女として藤原公任に嫁いだ。一時期、臣籍降下して源 昭平(みなもと の あきひら)と名乗る。能書家として知られていた。 == 生涯 == 天徳4年10月2日(960年)、源朝臣を与えられて臣籍に下る。安和元年8月25日(968年)に祖父・藤原在衡邸にて元服を行い、その年の11月27日には従四位上右兵衛督に任じられた。ところが、村上天皇所生の親王の中で、同母兄弟も含めて昭平以外が降下する事はなかった。 そこで、貞元2年4月17日(977年5月7日)に昭平は再び皇族に戻される事になり、正四位下から四品親王常陸太守に転じた。これは、当時の円融天皇が母親が違うとはいえ、兄である昭平が兄弟の中で一人だけ臣下の礼を取らなければならない状況を憂慮して皇族身分に戻したものであった。 だが、もう一つの背景として言われているのは、同じ日に左大臣であった源兼明(昭平の叔父で後の兼明親王)が皇族に復帰して中務卿に遷された点が指摘されている。これは、当時関白太政大臣であった藤原兼通が実弟である大納言藤原兼家と対抗するために、当時の藤原氏内部において兼通・兼家双方と対抗出来る立場にあった右大臣藤原頼忠(兼通の従兄弟)を味方につける必要性があり、そのためには現職左大臣であった兼明を皇族に戻して(当時、左大臣は皇族が就けない慣習であった)頼忠をその後任として昇格させる必要があった。だが、兼明一人を皇族に戻したのでは、「藤原氏が兼明を追い落とした」かのように見られて外聞が悪かった。そこで、円融天皇がかねてから望んでいた昭平の皇族復帰を同時に行うことによって、政治的な印象を薄めようとしたのだと考えられている。 その後、永観2年(984年)に親王は三井寺にて権僧正智弁を師として出家している。その後山城国愛宕郡岩倉(現在の京都市左京区)の大雲寺に移り住み、そこで病没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「昭平親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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