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煩悩即菩提(ぼんのう そく ぼだい)は、大乗仏教の概念の一つ。生死即涅槃と対で語られる場合が多い。悟り(菩提)とそれを妨げる迷い(煩悩)とは、ともに人間の本性の働きであり、煩悩がやがては悟りの縁となることである。 == 概要 == 原始仏教においては、煩悩を滅することに主題がおかれ、それにより覚りが得られるとされていた。 しかし、時代を経て大乗仏教の概念が発展すると、すべての衆生は何かしら欲求を持って生活せざるを得ず、したがって煩悩を完全に滅することは不可能と考えられるようになった。また煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心、つまり菩提心も生まれると考えられるようになった。 したがって、煩悩と菩提は分けようとしても分けられず、相(あい)即(そく)して存在する。これらのように、二つであって、しかも二つではないもののことを而二不二(ににふに)という。これは維摩経に示される不二法門の一つでもある。 般若心経に「色即是空 空即是色」とある通り、この色(しき、物質的)の世界は、固定した実体や我がない空であり、それ自体がすべて真如のあらわれである。さらに、この空の世界が、そのままこの世に存在するすべてのものの姿である。したがって、煩悩の概念そのものがなければ、相対的な悟りの概念もない。また、悟りも悟りを妨げる煩悩もその本体は真実不変の真如のあらわれである。それゆえ、煩悩を離れて菩提は得られない。また逆に、菩提なくして煩悩から離れることはない。これを「煩悩即菩提」と言う。 なお、煩悩即菩提といえば、相対した矛盾する言葉が「即」でつながっていることから、「煩悩=菩提」、煩悩がそのまま悟りである、と考えられやすいが、これは誤解であり、間違いである。天台本覚思想に走れば、現実の相対的二元論を忘れ、而二不二の考えを忘却し、本覚思想の絶対的一元論より「煩悩そのまま菩提」という風に直接肯定してしまうことになり、人々の愛欲や煩悩を増長し、退廃し、墮落することになるため、誤った解釈である。あくまでも紙一重、背中あわせで相対して存在しており、煩悩があるからこそ苦を招き、その苦を脱するため菩提を求める心も生じる、菩提があるからこそ煩悩を見つめることもできる、というのが煩悩即菩提の正しい語意である。 『大乗荘厳経論』随修品に「法性(ほっしょう)を離れて外に 別に諸法有ること無きに由り 是の故に是の如く説く 煩悩即ち菩提なりと」と説かれる。 「この泥があればこそ咲け蓮の花(与謝蕪村)」「蓮出汚泥(はすは、おでいよりいず)(即非如一)」「渋柿の渋味、そのまま甘味かな」は、煩悩即菩提の意味を端的に表現した言葉である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「煩悩即菩提」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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