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熊井 啓(くまい けい、1930年6月1日 - 2007年5月23日)は、1960年代から2000年代にかけて活動した日本の映画監督。妻はエッセイストでポプリ研究家の熊井明子。 多くの監督作が『キネマ旬報』ベスト・テンに選出され、ベルリン国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭の各賞を受賞した。日本を代表する社会派映画の巨匠である。 ==経歴・人物== 長野県南安曇郡豊科町(現安曇野市)に、地主の父、元教師の母の息子として生まれる。旧制松本中学(現長野県松本深志高等学校)、旧制松本高校文科乙類を経て新制の信州大学文理学部へ入学。大学時代は演劇と映画の日々を送っていたが、関川秀雄監督の誘いで卒業後は独立プロの助監督へ。さらに1954年日活撮影所監督部に入社する。そこで久松静児、田坂具隆、阿部豊、牛原陽一などの助監督に付くかたわら脚本家としての仕事もこなす。 1962年に明子夫人と結婚。1964年、帝銀事件について、綿密な調査と考証をもとに被疑者であった平沢貞通画伯を無罪とする立場から事件経過をドキュメンタリー・タッチで描いた『帝銀事件 死刑囚』で監督デビュー(脚本も務めている)。監督2作目の『日本列島』では、戦後の日本で起こった謎の多い諸事件を米国の謀略と関連付けて追及し、日本映画監督協会新人賞を受賞。骨太の社会派監督として注目されるようになった。 1968年には、三船プロダクションと石原プロモーションが共同制作した大作『黒部の太陽』の監督に抜擢され、当時の映画界に厳然として存在していた五社協定の圧力にも負けず、三船敏郎、石原裕次郎、佐野周二、滝沢修、高峰三枝子ら豪華なスター共演によって黒四ダムの建設を見事に描き、成功を収める。1969年に日活を退社し、退職金を投入して『地の群れ』を製作。以後フリーの映画監督して活躍し、三浦哲郎原作の芥川賞受賞作を白黒で美しく撮影した『忍ぶ川』(1972年)でキネマ旬報ベストテンベストワン及び監督賞、芸術選奨文部大臣賞などを受賞。 1974年には東南アジアに娼婦として売られた「からゆきさん」に題材をとった田中絹代出演『サンダカン八番娼館 望郷』でベルリン国際映画祭銀熊賞、キネマ旬報ベストテンベストワン及び監督賞を受賞し、アカデミー外国語映画賞にノミネートされるなど、重いテーマを扱いながら、重厚な人間ドラマを完成させ、海外からも高い評価を得た。 その後も初の時代劇『お吟さま』、戦後日本映画で初の中国ロケを敢行した井上靖原作『天平の甍』などを経て、1986年には戦時中に九州で起きた米軍捕虜生体解剖事件をもとに医師の戦争責任を問うた遠藤周作原作の『海と毒薬』を発表し、ベルリン国際映画祭審査員グランプリ、毎日映画コンクール大賞、3度目のキネマ旬報ベストテンベストワン及び監督賞を受けるなど国内外で評価された。その後も社会性の強いテーマを内包した作品を立て続けに発表し、独自な世界観を確立し、昭和を代表する社会派映画監督として知られた。 1989年、三船敏郎出演の『千利休 本覚坊遺文』でヴェネツィア国際映画祭監督賞を受賞。2001年には松本サリン事件を描いた『日本の黒い夏─冤罪』でベルリン国際映画祭に特別招待され、ベルリナーレ・カメラ(特別国際功労賞)を授けられた。 1995年、紫綬褒章を受章。 2003年、勲四等旭日小綬章を受章。 2007年5月18日早朝に私邸の敷地内で倒れているところを発見され、搬送された病院で意識を回復したものの、5月23日午前9時51分、クモ膜下出血のため死去。。新作の準備に意欲を見せていた中の無念の死だった。 2007年7月11日、東京・青山葬儀所に於いて『お別れの会』が催された。 かつて吉永小百合の母・和枝の面前で泥酔して暴れ、和枝の著書『母だから女だから』(立風書房、1976年)において名指しで痛烈に批判されたことがある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「熊井啓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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