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熊 克武(ゆう こくぶ)は清末、中華民国、中華人民共和国の軍人。中華民国時代における川軍(四川軍)の指導者の1人で、主に南方政府(護法軍政府)に与した。字は錦帆。祖籍は湖南省麻陽県(現在の懐化市麻陽ミャオ族自治県)。 == 事跡 == === 革命派としての活動 === 医者の家庭に生まれ、初めは学問を志した。しかし1903年(光緒29年)、四川東文学堂に入学した。この時、戴季陶ら後に民国時代に活躍する政治家・軍人たちと多く知り合っている。 同年冬、叔父の資金援助により日本へ留学する。大成尋常中学校を経て、東斌学堂で軍事を学んだ。東京にいた間に、熊克武は孫文と知り合い、1905年(光緒31年)8月の中国同盟会結成に関与した。同年12月に帰国すると、黄興など同盟会の同志たちと連携をとりながら、四川・広東など各地で反清蜂起を画策している。 1912年(民国元年)1月、熊克武は、重慶で成立した蜀軍政府で黄興の推薦により軍総司令に就任した。3月には蜀軍政府第1師師長に任命されている。4月、成都で成立していた四川軍政府に蜀軍政府が合流すると、熊は四川陸軍第5師師長として重慶に引き続き駐屯した。 1913年(民国2年)7月、二次革命(第二革命)が勃発すると、熊は楊庶堪ら同志と共に反袁世凱の蜂起を行った。しかし9月、四川都督胡景伊に敗れた。熊は日本へ亡命し、さらに南洋へ出て革命資金の募集に従事した。1915年(民国4年)12月、帰国して護国戦争(第三革命)に参加し、蔡鍔率いる護国軍第1軍に随って四川に戻った。1916年(民国5年)6月に袁が死去すると、四川督軍となった蔡により、熊は川軍第5師師長兼重慶鎮守使に任命された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「熊克武」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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