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熊野動乱(くまのどうらん)は、治承4年(1180年)9月から養和元年(1181年)10月にかけて紀伊国熊野三山で起きた争い。治承・寿永の乱に含まれる。 == 経過 == 治承4年(1180年)4月終わり頃から5月初め頃にかけて、熊野三山内において親平氏派と親源氏派の争い、すなわち「熊野新宮合戦」が起こり、諸国源氏に平氏討伐を命じる以仁王の令旨(源行家が伝達)の件が発覚(『平家物語』)。 同年9月以降東国において反平氏の挙兵が相次ぐと、紀伊国熊野でも不穏な動きが見られるようになった。熊野別当家内部において権別当の湛増(僧位は法眼)とその弟湛覚(僧位は法眼)に争いが生じ平氏が湛増の召還を命じたところ、湛増は反抗的な態度をとった。湛増の態度は謀叛と見なされたが、その後湛増が子を人質に送ったことで11月には赦免が下された。 しかし、翌治承5年(1181年)1月には熊野の衆徒と見られるものが志摩国菜切を襲撃し(熊野海賊菜切攻め)、また伊勢国に攻め込んで伊雑宮に乱入した後伊勢国の住人平信兼と交戦して撃退される(『玉葉』)などの行為があり、実質的な反平氏活動を継続していた。 また、養和元年(1181年)3月の墨俣川の戦いにおいて熊野勢力が源行家に協力したと見える記載が『玉葉』にある。その後しばらくの間、熊野の活動は沈静化するが、同年9月、権別当湛増は坂東方(源氏方)に呼応して挙兵した〔阪本290 〕。その直後、熊野勢力は湛増の命により蜂起して有田郡と日高郡の郡境にある鹿背山を塞ぎ、反平氏の立場を明確にした。 それに対して朝廷は、紀伊国知行国主平頼盛を追討使に任命した(『玉葉』)。10月11日、紀伊国の湯浅党と熊野勢が対峙するが、熊野勢に打撃が与えられることはなかった。その後、熊野内部において平氏方と見られる新宮の行命(僧位は法眼)が上洛しようとしたところを襲撃され、行命の息子と郎党は殺され行命は逃亡した(『玉葉』)。 また、熊野別当の座を湛増と争っていた湛覚も熊野を去り、この一連の騒動で湛増が熊野三山の主導権を手にすることになった。こうして、反平氏の立場を取った湛増が主導権を握ったことにより、熊野は、養和元年(1181年)10月以降、明確に反平氏の立場に立つようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「熊野動乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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