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熊野 輝光(くまの てるみつ、1957年8月28日 - )は、香川県木田郡三木町出身の元プロ野球選手(外野手)。 == 来歴・人物 == 志度商業高校では、遊撃手としての春の選抜に出場〔『シリーズにっぽんの高校野球 vol.6 四国編』(ベースボール・マガジン社) 51頁。ISBN 978-4583615448〕。志度商としては34年ぶりの選抜出場(甲子園出場は28年ぶり)であり大きな話題となるが、1回戦でエース小林誠二を擁する広島工に敗退。同年夏は北四国予選準決勝で続木敏之、片岡大蔵のいた新居浜商に敗れた。 卒業後は中央大学に進学。東都大学リーグでは春季リーグに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で早大を降し優勝。リーグ通算103試合に出場し、390打数90安打、打率.231、5本塁打、31打点。在学中は全試合に出場した。1979年には第8回日米大学野球選手権日本代表に選出される。大学同期に小川淳司、香坂英典がいる。 1979年のドラフト会議でヤクルトスワローズに3位指名されたが入団を拒否し、社会人野球の日本楽器(現:ヤマハ)に進んだ。から都市対抗野球大会に4年連続出場。社会人野球日本選手権大会で優秀選手に2度選出される。インターコンチネンタルカップ日本代表。のロサンゼルスオリンピック野球日本代表ではチームの主将を務め金メダル獲得に貢献した。同年の日本・キューバ国際野球大会でも日本代表となり、社会人ベストナインに外野手として選出される。 同年のドラフト会議では阪急ブレーブスから3位で指名され入団した。入団1年目のからレギュラーに定着し、118試合に出場。本塁打を14本放ち、新人王に選出〔年度別成績 1985年 パシフィック・リーグ 〕されるなど、晩年の阪急を支えた。 に阪急が身売りし、球団名がオリックスとなってからは若手の台頭もあり出場機会が年々減少していき、には勝呂博憲とのトレードで読売ジャイアンツに移籍。当初は1番打者を任せられたが、主に守備固めや代打での出場が多くなり、目立った成績を残すことができず、オフに戦力外通告を受けた。翌にはテスト入団でオリックスに復帰した。一軍に昇格することはできなかったが、二軍ではコーチ的な存在で若手選手を積極的に指導し、同年限りで現役を引退した。 引退後はオリックスの打撃コーチに就任し、チームの2連覇との日本一に貢献。 からスカウトとしてチームの編成に携わった。に近鉄とオリックスが合併し誕生した新生オリックス・バファローズでスカウトグループ副部長となり、には編成部長補佐兼国内グループ副部長(スカウトグループ部長)に就任し2010年まで務めた〔古屋、赤堀氏が復帰=プロ野球・オリックス 〕。に読売ジャイアンツ大阪駐在スカウトに就任。2013年から阪神タイガースのスカウトに就任した〔週刊ベースボール2014年3月24日号 P20〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「熊野輝光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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