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父島要塞(ちちじまようさい)は、父島の防備のため設置された大日本帝国陸軍の要塞である。 == 概要 == 父島は日本海軍が日露戦争後に着目し、貯炭場、無線通信所などを設置していた〔浄法寺『日本築城史』302ページでは、父島の大村に「海軍要港部」があったと記されているが誤りである。要港部の項目を参照。〕。海軍からの強い要請で、1920年8月、陸軍築城部父島支部が設置され、測量・砲台設計に着手した。砲台工事は1921年7月から着工された。しかし、1922年2月、ワシントン軍縮会議による太平洋防備制限条約により砲台工事は中止となった。 1934年12月、日本の防備制限条約からの脱退に伴い、中止した砲台工事を再開し備砲工事に着手した。1940年8月、戦備作業が指令され、1941年9月、父島要塞臨時編成令が出され戦備に入った。日米開戦後は陸軍部隊の他、海軍の第7根拠地隊から新たに改変された父島方面特別根拠地隊や、主に対潜哨戒を任とする父島海軍航空隊(後に第九〇三海軍航空隊に編入)等が防備に当たっていた。 1944年2月、大本営はマリアナ諸島及びトラック島を始めとする南洋諸島の防備拡大を目的とした第31軍を編成、父島要塞司令部もこの指揮下に置かれる。同年5月、父島・母島・硫黄島の各守備隊を元に第109師団を編成、小笠原兵団栗林忠道兵団長の指揮下に入る。この時、小笠原諸島各島の住民6,886人(残留者 825人)は本土へ強制疎開となった。 この頃から父島要塞への米軍の空襲が激化。特に1944年8月頃から開始されたスカベンジャー作戦では艦砲射撃も交えた猛攻撃が行われ、日本側は父島海軍航空隊がほぼ壊滅、濱江丸等の多数の艦艇を喪失した。しかし日本側の反撃も激しく、いくつかの米軍機が対空砲火で撃墜されている。その中には、後に第41代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュ中尉の乗機も含まれていた〔Cressman (1999) , pp. 532-534.〕。 その後の父島要塞には散発的に空襲が行われた程度で、母島共々大きな地上戦闘は発生しないまま終戦を迎えることとなるが、硫黄島の戦いに備えて硫黄島へと重火器や物資の抽出が行われたこともあり、守備兵は困窮と飢餓の中で苦しい自活を強いられることとなる。その最中で小笠原事件のような事態が発生したとされている。 1945年9月3日、米海軍駆逐艦ダンラップ艦上で小笠原の日本軍は降伏調印。その後父島要塞は米海軍の占領下に置かれ、残存していた重火砲類は全て爆破処理にて無力化が行われた。1946年10月には欧米系島民が日系島民に先んじて帰島を果たすが、占領下での困窮した生活の自助のために、父島要塞跡内に残存していた兵器の残骸を屑鉄として回収する事で生計を立てる例も見られたという。 父島要塞跡は母島の軍施設とともに、今日でも多数の地下壕や重火砲類の残骸が比較的良好な状態で現存しており、小笠原諸島の観光資源の一角を成している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「父島要塞」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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