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片山 晋三(かたやま しんぞう、1846年(弘化3年)7月26日 - 1890年(明治23年)12月6日〔倉田喜弘編『明治の能楽(三)』(国立能楽堂)所引「日出新聞」1890年12月7日記事〕)はシテ方観世流能楽師。6世片山九郎右衛門。諱は豊光〔野々村(1967)、131頁に豊元とあるのは誤りと見られる〕、また光吉、九郎三郎、一とも名乗る〔片山(1942)、3頁〕。幕末から明治期にかけて活躍し、当時の関西を代表する能役者の一人であった。 ==生涯== 父は5世九郎右衛門豊尚。片山家は代々京都で活動した観世流職分の家であり、禁裏での演能に出勤するとともに、宗家に代わって京阪地方の観世流を統率する立場であった(片山九郎右衛門も参照)。 当初は光吉を名乗ったが、1856年(安政3年)に御所で九郎三郎の名で「舎利」を舞った記録が残ることから、この頃に改名したと見られる〔野々村(1967)、134頁〕。以後父・豊尚とともに禁裏に奉仕していたが、1861年(文久元年)、改元を祝して催されたのを最後に禁裏御能は途絶える〔古川(1969)、13頁〕。 1864年(元治元年)、禁門の変の兵火により、西洞院にあった片山家の舞台が焼失〔古川(1969)、13頁〕、さらに同年9月、父・豊尚が47歳で没する〔野々村(1967)、131頁〕。明治維新は能楽界全体に大きな打撃をもたらしたが、京都は東京遷都の影響もあってその退潮は著しかった〔古川(1969)、13頁〕。 そんな中でも晋三の名声は高く、金剛流の野村三次郎(1871年没)とともに「関西の双璧」と称された〔野々村(1967)、183頁〕。一時阿波に移っていた金剛謹之輔〔野村三次郎の養子(のち解消)・金剛禎之助の子〕が1877年(明治10年)に帰洛し、精力的な活動を開始すると、それに触発されて舞台を新築、1883年(明治16年)には観世流宗家・観世清孝、福王繁十郎などを招いて舞台開きを催した〔古川(1969)、39頁〕。以後晋三はこの舞台で月並能を開催した他、また1885年(明治18年)には上京して、翌1886年にかけて3度にわたり芝能楽堂の舞台に立っている〔野々村(1967)、183頁〕。 1887年(明治20年)には久しぶりの天覧能が京都で催されるなど、京都能楽界に復興の気運が高まる中〔古川(1969)、39〜40頁〕、1890年(明治23年)脳溢血のため死去。45歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「片山晋三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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