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片岡 市太郎(かたおか いちたろう、1877年(明治10年)2月13日 - 没年不詳)は、日本の俳優である。本名塚本 末吉(つかもと すえきち)。横田商会で映画製作を開始して以来の牧野省三を支えた、「マキノ」ブランド初期の主演俳優として知られる。のちに元子役のマキノ登六が「片岡市太郎」を名乗るが、33歳も年齢が違う別人である。 == 来歴・人物 == 1877年(明治10年)2月13日、京都市堺町通丸太町通(のちに上京区の同所)に、目の前にある京都御所専門の彫刻師・原沢彦右衛門の子として生まれる。1881年(明治14年)に父が死亡、塚本清三郎の養子となる。大谷友松一座の片岡市蔵に弟子入りし、「片岡市太郎」を名乗って京都「真砂座」初舞台を踏む。養父とともに各地を巡業、学校教育は受けられなかった〔『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「片岡市太郎」の項(p.143)を参照。同項執筆は吉田智恵男。〕。 1894年(明治27年)、17歳で京都「岩上座」に立つ。そののちに名古屋の市川新四郎一座に参加、立女形となる。同一座が京都「千本座」を常打ち小屋としたときに、当時同劇場の経営者だった1歳下の牧野省三と出逢う。1908年(明治41年)に牧野が横田永之助の横田商会に依頼され、サイレント映画『本能寺合戦』を初めて監督、9月17日に公開されるが、ここから始まる一連の牧野監督作に市川新四郎一座で出演している。1909年(明治42年)10月、牧野が岡山の金光教本部を参詣したときに発見した尾上松之助を主演に据えた本格的な映画製作を開始するが、その第1作『碁盤忠信 源氏礎』に市太郎は「源義経」役で出演する。同作以降、市太郎は舞台を廃業し「映画俳優」となる〔。 横田商会、1912年(大正元年)の同社の合併による日活の設立、1919年(大正8年)の牧野の日活からの独立によるミカド商会の設立、そして牧野の日活への復帰、と牧野省三の行動に、市太郎は完全に同行する。この間、市太郎は牧野の異父妹・京子と結婚し〔、マキノ・ファミリーの一員となる。ミカド商会設立第1作、金森万象監督の『都に憧れて』では牧野京子と共演している。 1921年(大正10年)6月、牧野省三が再度日活から独立、等持院撮影所を建設し、牧野教育映画製作所を設立、さらには1923年(大正12年)の同社のマキノ映画製作所への発展的な改称・改組にあたっても市川幡谷とともに「マキノ」の初期を支えた。同年秋には新スター阪東妻三郎が登場、二川文太郎、井上金太郎といった20世紀生まれの20代前半の監督が登場するにあたり、次第に脇にシフト、47歳を迎える1924年(大正13年)の沼田紅緑監督の『燃ゆる渦巻』での環歌子との共演あたりが最後の主役となる。やがて姿を消した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「片岡市太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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