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片岡 恒一(かたおか つねかず、1896年(明治29年)4月19日 - 1952年(昭和27年)4月7日)は、三重県三重郡富洲原町(現在の四日市市富洲原地区)富田一色出身の衆議院議員。地方議員(三重県議会議員・四日市市議会議員)。三重郡富洲原町の教育者。 ==年譜== * 富田一色地区の三重県下の富豪で名門の商家であった片岡家(有力者の片岡徳松の一粒種の子供)の一人っ子として誕生する。金持ちの1人息子でボンボンと呼ばれて、片岡氏は北勢48家の1つで堺村城主だった片岡家の一族である。学歴は以下である。型破りの人物で、親譲りの監元買別所(四日市市に立地)と、米殻取引所仲買店(名古屋市に立地)と、回漕店(三重郡富洲原町に立地)を切廻して一分の隙もなかった。 #三重郡富洲原村立富洲原尋常高等小学校(現在の四日市市立富洲原小学校)を卒業する。 #富田中学(現在の三重県立四日市高等学校)を卒業する。 #東京遊学時に父は医者を希望したが受け付けず、慶應義塾大学理財科と父子で相談して決めたが、大隈重信から一番危険な仕事は相場と政治と聞いたので、終生の仕事を政治と相場と決意して早稲田大学の政治経済科(政治経済学部)を卒業する。〔『地方発達史とこの人物三重県』(1935年)三重県議会議員の部5ページ上段〕 * 名古屋新聞の新聞記者となる。 * 三重県議会議員(三重郡から選出)に32歳の若さで1927年(昭和2年)に当選した。 * 1931年(昭和6年)に当選。民政党三重県支部幹事長となった。岩名・早川と共に川崎克を支える三羽鳥と云われる花形役者である。 * 1935年(昭和10年)に当選の通算3期を務める。 * 富洲原町の富田一色地区の海運橋近くの富田一色本町(現在の七軒本町自治会)で自営業の米販売業を経営する。 * 1936年(昭和11年)2月20日の第19回衆議院議員総選挙で帝国議会の衆議院議員に初当選をする。 * 食い逃げ解散後の1937年(昭和12年)4月30日の第20回衆議院議員総選挙にも当選して、連続当選をする。立憲民政党に所属する議員だった。 * 1942年(昭和17年)4月30日の翼賛選挙では東條内閣による政府公認候補として、翼賛政治体制協議会の推薦候補になったが第21回衆議院議員総選挙で非推薦の川崎克らに敗れて落選する。 * 1941年(昭和16年)2月11日の紀元節に三重郡富洲原町が四日市市に合併した際に旧富洲原町の合併条件である富洲原地区選出の議員数は3人で以下の3名が地区別で割り当てられた四日市市議会議員となった。 #平田佐矩が四日市市議会議員に就任していた。(富田一色出身の平田紡績社長と富洲原町議会議員から昭和16年から昭和22年まで四日市市議会議員に就任した。戦後助役となり、昭和34年から四日市市長となる)。 #片岡恒一が四日市市議会議員に就任していた。(富田一色出身の三重県議会議員と帝国議会の衆議院議員から昭和17年から昭和22年に四日市市議会議員となる)。 #早川政蔵が四日市市議会議員に就任していた。(天ヶ須賀出身の富洲原町議会議員から昭和16年から昭和30年まで四日市市議会議員となる)。 *片岡恒一は平田紡績の当主で富田一色地区出身の元富洲原町会議員の平田佐矩・天ヶ須賀地区出身で元富洲原町会議員の早川政蔵と共に四日市市議会議員となる。 * 衆議院議員などの政治家や教育者としての功績で1943年(昭和18年)の勲四等瑞宝章の栄誉を受けた。 * 1952年(昭和27年)に56才で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「片岡恒一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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