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片岡慶三郎 : ミニ英和和英辞書
片岡慶三郎[み]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground
: [み]
  1. (num) three 

片岡慶三郎 ( リダイレクト:高木新平 ) : ウィキペディア日本語版
高木新平[たかぎ しんぺい]

高木 新平(たかぎ しんぺい、1902年11月3日 - 1967年4月21日〔『無声映画俳優名鑑』、無声映画鑑賞会編、マツダ映画社監修、アーバン・コネクションズ、2005年、p.96-97。〕)は、日本俳優映画監督映画プロデューサーである。初期には片岡 慶左衛門(かたおか けいざえもん)、片岡 慶三郎(かたおか けいさぶろう)と名乗った。本名は慶吉(-けいきち)〔。身のこなしの軽さから「鳥人」として知られる〔。
== 人物・来歴 ==
1902年(明治35年)11月3日長野県下諏訪町に「高木慶吉」として生まれる〔〔『日本俳優名鑑 - 映画俳優の部』、「芝居とキネマ」昭和4年1月号新春付録、1929年。〕。神田英語学校卒業。
1920年(大正9年)、マキノ俳優養成所に入り、牧野省三に師事した〔。1923年(大正12年)6月、片岡 慶左衛門片岡 慶三郎の名で映画に出演し始める〔#外部リンク、「片岡慶左衛門」「片岡慶三郎」リンク先、日本映画データベース、2009年10月26日閲覧。〕。1925年(大正14年)の東亜キネマからの牧野の分離独立後も、東亜キネマに残留する〔〔#外部リンク、「高木新平」リンク先、日本映画データベース、2009年10月26日閲覧。〕。同年、女優の生野初子と結婚する〔菅家紅葉氏談話 立命館大学、2009年11月16日閲覧。〕〔『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年、「生野初子」の項。〕。
1927年(昭和2年)に独立〔、吉田山麓に高木新平プロダクションを設立、監督業も行うが〔、翌1928年(昭和3年)、マキノ・プロダクションに改めて入社する〔〔。牧野の没後、1930年(昭和5年)に帝国キネマ演芸に移籍〔、1933年(昭和8年)には宝塚キネマ〔、1935年(昭和10年)にはエトナ映画社に移籍する〔が、同年以降、第二次世界大戦終結まで出演の記録がない〔。同年、妻の生野初子と離婚した〔。
戦時中は近衛連隊に所属。
戦後、1949年(昭和24年)に東横映画に出演して復活する〔が、1950年(昭和25年)でまた途絶える〔。1954年(昭和29年)、東宝黒澤明監督の『七人の侍』、1957年(昭和32年)、おなじく『蜘蛛巣城』に出演する〔。新東宝の映画に出演したあと、1961年(昭和36年)、ふたたび黒澤明監督の『用心棒』に出演している〔。
1958年(昭和33年)のテレビ番組『月光仮面』では、怪獣「マンモスコング」のぬいぐるみを制作、自らこれを着けてマンモスコングを演じている〔『月光仮面を創った男』(平凡社新書)〕 。
1966年(昭和41年)、NHK大河ドラマ源義経』に出演した後、1967年(昭和42年)4月21日、病気により死去した〔。満64歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「高木新平」の詳細全文を読む




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