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片岡直輝 : ミニ英和和英辞書
片岡直輝[かたおか なおてる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [こう, おか]
 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground
: [ひた, ちょく]
 【名詞】 1. earnestly 2. immediately 3. exactly

片岡直輝 : ウィキペディア日本語版
片岡直輝[かたおか なおてる]

片岡 直輝(かたおか なおてる、安政3年7月3日1856年8月3日) - 昭和2年(1927年4月13日)は、明治大正昭和初期の実業家貴族院議員土佐国出身。片岡直温の兄。戦前の関西経済を牽引した人物の一人であった。
== 生涯 ==

=== 出生から日銀退職まで ===
1856年(安政3年)7月3日、父・孫五郎直英と母・信子の長男として土佐国高岡郡下半山村(現高知県津野町)で誕生する。
生家は近隣に家のない寂しい一軒家であったが、直輝や弟・直温が幼少時代を過ごした時期は幕末であり、その立地条件から勤王の志士に秘密の集会所として、また潜伏場所としてたびたび利用された。その当時、直輝や直温はまだ少年であり、あまり深く関わることはなかったが、父・直英は勤王に傾倒していたため、私財を投じて支援した結果、家計は火の車であった。さらに追い打ちをかけるように、その父が病没してしまい多大な借金だけが残され、母・信子は借金を返すため昼夜を問わず働き続け、また直温は東林寺に預けられて兄弟は別れることとなった。直輝は勉学に励み、14歳の時に十数人の弟子を取り、わずかの報酬ながら家計を助けた。
その後、信子が直温を寺より引き取ることとなり、直温に信子と家のことを頼み1873年(明治6年)5月、16歳の時に上京する。上京後は親族に寄食し、まず電信学校に入学したが志に合わず、その後1874年(明治7年)に海軍主計学校へ入学することとなる(両校とも就学中は学費が必要なかった)。随行員や軍艦の員外乗船などを経験し、1878年(明治11年)、海軍主計学校卒業とともに海軍主計副として海軍入りする。主計課長心得、中主計を経て1886年(明治19年)、西郷従道海相が欧米各国へ派遣されるにあたり、その随行員として抜擢されたことに合わせ海軍大主計となる。帰国後は、海相外遊中の残務の取り扱いなどを代行、フランスへの派遣、また「厳島」主計長の兼任など尽力したが、1891年(明治24年)9月、その任を解かれ武官時代に終わりを告げることとなった。なお退役1906年(明治39年)7月1日である〔『官報』第6905号、明治39年7月6日。〕。
海軍を去った後の1892年(明治25年)7月、直輝と同郷であった河野敏鎌内務大臣の推挙を受け秘書官に任命されて文官時代が始まった。同年9月、河野内相が文部大臣になると再び文相秘書官となるが、1893年(明治26年)3月、文相が井上毅へ親任されるに際して依願免官となると、内務省に復帰し大阪書記官に任命される。上水道敷設、大阪港建設、下水道整備などを指揮し才腕を振るったが、1896年(明治29年)4月、内務省を去り文官時代を終える。
そして同年6月、日本銀行に入行する。まずは見習いとして銀行の実務を経験し、同年10月に大阪支店長心得に、そして1897年(明治30年)2月、大阪支店長に抜擢をされる。当時の日銀大阪支店長といえば関西財界を支配する力があり、1899年(明治32年)3月に日本銀行支配役を免ぜられるまでの日銀時代に、後の実業家としての地盤が築かれることとなる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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